日本人の物語01291【室町/義持期】義持の横暴
どうも義持の性格がこの頃から変貌していきます。特段のきっかけみたいなものもなく、突然の変貌です。
以前、「義持は義満と異なり、公家に対して配慮していた」として、応永19(1412)年9月27日に義持が二条持基からの拝賀を丁重に断った例を述べました。義持はあくまで将軍より摂関家が上であるとの認識を持ち、摂関家を立てようとする姿勢を見せていました。
ところがその後、義持は徐々に義満に似て、摂関家を蔑ろにし始めます。
応永21(1414)年12月5日。即位礼を目前に控えた称光天皇が仙洞御所に行幸するに当たり、本来なら摂関家が近侍すべきところを義持が近侍しました。伏見宮貞成王は日記に「前代未聞」と記しており、義持の僭越ぶりを嘆いています。義持らしからぬ行動です。
さらに12月13日、天皇が神祇官に行幸しましたが、誰が近侍するかが問題となりました。関白・一条経嗣が義持に事前に
「前回と同様ですか」
と尋ね、義持がそうだと答えたので義持が近侍することとなりましたが、経嗣は日記に
「とんでもないこと。権勢を持って強引に押し通している。前例とすべきではない」
と記し不満を述べています。おまけにこの日、義持は経嗣よりも天皇に近い席を与えられ、酒宴では泥酔して靴を履く際に経嗣の肩をつかんで寄りかかったといいます。関白を舐めた態度です。
12月19日に称光天皇の即位礼が行われましたが、このときもトラブルがありました。儀礼の進行を差配すべき内弁(ないべん)については、後小松上皇の希望もあって左大臣・今出川公行(いまでがわきんゆき:1365~1421)が担当することになったのですが、義持は
「即位式では摂関家(五摂家のいずれか)がやるのが佳例である」(つまり今出川家では役不足であり、近衛・一条・九条・鷹司・二条のいずれかが行うべきである)
と述べ、右大将・九条満家(くじょうみついえ:1394~1449)に変更させたのです。このとき、右大将のポストでは内弁を務めるのに不足があることから、九条満家を無理やり右大臣に昇格させるため、現役の右大臣・鷹司冬家(たかつかさふゆいえ:1367~1428)を辞任に追い込むという傍若無人ぶりでした。
この即位礼においては、摂関家の長が即位灌頂(即位礼における天皇の振る舞い方)を天皇に伝授するのがならわしでしたが、関白・一条経嗣はそれをしようとせず、義持が
「経嗣は作法を知らないのではないか」
と苦言を呈したとの記録があります。あれこれと口出しばかりする義持の態度を見た経嗣は、灌頂の伝授すらも義持に干渉されると思い、何もしなくなったのかもしれません。
