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日本人の物語01164【南北朝後期】南朝3(98)代長慶天皇

実在が疑問視されている天皇といえば神話時代ですが、南北朝時代にも同様に疑問視されていた天皇がいたとは驚きですね。

 幕府(北朝)が基氏・義詮の死去や武蔵平一揆の乱に揺れる中、正平23/応安元(1368)年3月11日、摂津住吉にて南朝の後村上天皇が崩御しました。40歳でした。
 後村上天皇は親王時代、北畠親房とともに奥州に下向し、即位後は吉野を落とされ賀名生、住吉、八幡、金剛寺、観心寺と転々と移動しながら生きてきました。歴代天皇の中でも総移動距離が極めて長い異色の天皇といえるでしょう。
 また、八幡の戦いでは甲冑姿で乗馬して逃亡するなど(01057回参照)、天皇としては異例の振る舞いも多く語り伝えられています。エキセントリックな後醍醐天皇の影に隠れがちですが、後村上天皇もまた強い個性を持っていたかもしれません。
 後村上天皇の崩御により、長子・寛成親王(ゆたなりしんのう:1343~1394)が即位しました。長慶天皇です。
 この長慶天皇の実在性は長らく疑問視されていました。というのも、97代後村上天皇と99代後亀山天皇(長慶天皇の弟)が発給した文書は残っているのですが、長慶天皇については発給文書が存在しないのです。
 しかし大正時代になってから、長慶天皇の存在を示す同時代の史料が次々と発見されました。例えば、醍醐寺で発見された『帝系図』には、建徳2(1371)年の書き込みで当今(とうぎん:現在の天皇を指す)の諱が寛成であるとされています。こうした史料の発見により長慶天皇の即位は徐々に裏打ちされていきました。
 そしてダメ押しとなったのが、大正5(1916)年に発見された『耕雲千首』という和歌集でした。これは天授2(1376)年に行われた歌会で詠まれた和歌を書き記したものですが、元中6(1389)年に追記された奥書に「仙洞並びに当今」との記述があったのです。「仙洞(せんとう)」とは上皇、「当今(とうぎん)」とは天皇を指しますから、つまりこの時点で上皇と天皇が同時に存在していたことが分かります。
 元中6(1389)年時点での天皇は後亀山天皇ですから、上皇とはその兄である長慶に他なりません。こうして長慶天皇が存在したことと即位していたことが確実となりました。
 大正15(1926)年10月21日、大正天皇の詔書により、長慶天皇は第98代天皇として公認されました。
 なお、長慶天皇が南部せんべいの創始者であるとの伝説があります。北朝方に追われ南部(青森県八戸市)へ落ち延びた長慶天皇が、食べ物を得られず困っていたところ、側近の赤松助左衛門(あかまつすけざえもん)が付近の農家からそば粉とゴマを調達してせんべいを作りました。長慶天皇はこの煎餅を気に入り、これ以降、南部せんべいには楠木家の家紋「菊水」と赤松家の家紋「三階松」を焼き入れるようになったというものです。
 これは昭和初期に宣伝目的で作られたエピソードであり、さすがに長慶天皇が東北を放浪した事実はなさそうですが、こうした伝説が生まれるほどに長慶天皇の生涯は謎に包まれているのです。

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