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日本人の物語00393【平安後期】頼長の性格

 頼長の儒学や漢学の知識がいかにすごかったかを取り上げて来ましたが、一方で頼長には他人を見下す発言が多く、多くの敵を作っていました。『今鏡』によると、道で出会ってさえ相手に厳しく文句をつけたり、遅刻した者を責めて邸宅を焼き払ったりしたといいます。
 この頼長が残した日記は『台記』と呼ばれ、そこに頼長の厳しい性格がよく表れています。
 特に有名なエピソードはこれでしょう。
 まず、久安元(1145)年10月23日の記述に、太政官の召使を務める国貞(くにさだ:苗字不明)という男が検非違使庁の役人に殺されたとあります。国貞というのは極めて有能な男で、多くの役人がその死を悼んだといいます。一方、犯人の男は逮捕されたものの、同年12月7日には恩赦により釈放されました。
 そして同年12月17日の日記には、
「今夜、例の犯人の男が何者かに殺された。国貞は朝廷に忠義を尽くした男だったので、その犯人が殺されたというのは天の計らいかもしれない。未だ犯人は分かっていない」
と書かれています。
 ところがこの日の日記の注のところに、
「実は私が家人に命じて殺させたのである。天に代わって誅殺したのだ。このことは誰も知らない」
と書かれているのです。
 日記は写本でしか伝わっていないので、日記の原文がどのようになっていたかは分かりません。もしかすると、裏側にでもこっそり書かれていたのかもしれませんが、いずれにせよ怖い話です。
 だいぶ後の時代ですが、鎌倉後期に即位した花園天皇は『台記』を読んだらしく、
「頼長は才能に優れた人物であったと思うが、偏った人物である」
と日記に記しています。この暗殺事件についても
「頼長は天に代わって罰を下したと言っているが、天意とはそういうものではないだろう」
と鋭く断じています。
 さらに花園天皇は、頼長の日記中に
「愛していた家来が病に倒れ、回復を神仏に祈ったのに、その甲斐なく死んでしまった。もう神仏は信じない」
とあったのを取り上げ、
「天命というものを理解していない」
と断じています。
 頼長は神仏よりも自らの才覚だけを信じてのし上がった人物なのでしょう。

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