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日本人の物語00374【平安後期】後三年の役 清原家の三兄弟

 さて、前九年の役において、源頼義・義家父子が、出羽の豪族・清原武貞の助力を得た上で安倍貞任や藤原経清を滅ぼしたこと、清原武貞が藤原経清の未亡人・有加を奪ったことについては、既に述べました(00364回参照)。清原武貞はこの功績により、鎮守府将軍に就任します。
 武貞の戦利品として奪われた未亡人・有加は、亡き夫・経清との間に産まれた清衡を連れ、清原武貞の居館(秋田県横手市)に嫁いできました。
 ところが、その清原武貞は既に正妻との間に長男・真衡(さねひら)をもうけていました。
 さらにその後、清原武貞は、有加との間に次男・家衡(いえひら)をもうけました。
 非常に複雑なのですが、まとめるとこんな具合です。
・長男 真衡(さねひら:清原武貞と正妻の子:?~1083)
・養子 清衡(きよひら:藤原経清と有加の子:1056~1128)
・次男 家衡(いえひら:清原武貞と有加の子:?~1087)
 清原武貞からみると、長男・真衡こそが正統な嫡子です。次男・家衡は謀反人から奪った妻に産ませた子ですから、いわば謀反人の血が半分入った子ということになります。養子・清衡に至っては、妻の連れ子として引き取って育ててはいるものの、自分の血筋ではなく、100%謀反人の血しか引いていない子、ということになります。
 この複雑な家系の三兄弟が争うのが、後三年の役なのです。
 1070年代のことと思われますが、鎮守府将軍・清原武貞が死去し、真衡が家督を継いだことが後三年の役のきっかけとなります。
 真衡は子に恵まれなかったのですが、なんと血縁関係のない平成衡(たいらのなりひら)を都から招致し、養子としました。
 これはおかしな話です。真衡には2人の弟(清衡と家衡)がいるにもかかわらず、これを跡継ぎにしないと宣言したようなものです。さすがに清原家の血を引いていない清衡は除外するとしても、異母弟である家衡には家督継承権があるはずなのに、一体どういうことなのでしょうか。おそらく、真衡は謀反人の血を引く弟2人を嫌っていたということでしょう。
 2人の弟は、真衡のこの行動を挑戦と受け取ったようです。
 真衡はなかなか豪胆な人物だったらしく、弟たちだけでなく、清原一族の長老である叔父・吉彦秀武(きみこのひでたけ)をも、つまらないことが原因で敵に回してしまいます。
 永保3(1083)年。吉彦秀武は、平成衡の婚儀を祝うため、真衡の居館を訪れましたのですが、ここで思わぬ無礼な仕打ちを受けます。せっかく砂金を持参して祝いに駆け付けたのに、真衡は僧と囲碁に興じて秀武を相手にしなかったのです。
 吉彦秀武は、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまいました。
 馬鹿みたいな小さな話ですが、こんなことから歴史は動いていくものです。

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