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日本人の物語00556【鎌倉初期】鎌倉初期総括

 元暦2(1185)年から建久3(1192)年にかけて、鎌倉時代の最初の7年間を見てきました。この7年間は、頼朝が最大の敵対勢力たる義経と奥州藤原氏を討ち、支配体制を固めていった時期でした。
 平清盛と源頼朝、どちらも武家政権を打ち立てるという日本史上の画期的な仕事を成し遂げた人物ですが、その手段については対照的に語られることが多いようです。平清盛が朝廷の行政機構をそのまま存続させ、それらのポストに一族を優先的に配置させることで(いわば乗っ取って)政務を行ったのに対し、源頼朝は京から遠く離れた鎌倉にいて、どれだけ上洛を求められても鎌倉から動かず、敵対勢力を滅ぼしてからやっと重い腰を上げて上洛し、官位は得たものの陣定(公卿らの会議)に一度も参加しようとしませんでした。
 さらに、清盛は本人が安芸守に任じられたのを皮切りに、全国各地の国司の職を一門で占め34ヶ国を支配したのに対し、頼朝は朝廷の官職とは別に守護・地頭という幕府独自の役職を設け、御家人を配置しました。
 これらのことを総合して、
「貴族と武士が対立する中、清盛は武士出身ながら貴族となって天下を取った。頼朝は貴族となることを拒否し、武士であり続けながら天下を取った」
などと総括する向きが多いようです。その歴史観の根底には、
「清盛による武家政権樹立よりも、頼朝による東国で独立した武士政権を樹立したこと方がより画期的な出来事であった」
という考えがあるのでしょう。
 しかし、近年歴史学者の間では、清盛の画期を重視し、頼朝の政権の新しさをさほど評価しない考え方も広がっているようです。鎌倉幕府が朝廷からの独立色を強めたのは承久の乱以降のことであって、それまでの間は朝廷に従属する地方政権に過ぎなかったというわけです。
 確かに我々は、承久の乱以降の強大な鎌倉幕府を知っているわけで、頼朝の構想の中にあたかもその強大な政権があったかのようにイメージしてしまいがちです。さらに我々は「江戸幕府」という朝廷の権力をしのぐ強力な政権を知っているわけで、鎌倉幕府を語るとき、江戸幕府のイメージに引きずられがちです。
 鎌倉幕府の基礎が出来上がったところで鎌倉初期の稿を閉じたいと思いますが、この後まだまだ頼朝の事績が続きます。頼朝に果たして新規性はあったのか、そのあたりに着目して、鎌倉前期の稿を書き始めたいと思います。

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