日本人の物語00151【古墳】磐井の乱
穂積押山と大伴金村の主張により、任那4県が百済に割譲されたわけですが、この処置をめぐって、「押山と金村は百済から賄賂をもらっている」との流言が出回りました。また、任那諸国はこの処置に大いに不満を持ち、百済に侵入して略奪の限りを尽くしました。
この略奪を止めるため、倭国は物部至々(もののべのしし)を渡海させました。ところが物部至々は任那の軍に襲撃され、衣服を剥ぎ取られ、命からがら裸で帰国したと伝えられています。まるで漫画のような話ですね。
継体天皇17(523)年。さらに事態を混乱させる出来事がありました。任那の混乱に乗じて、新羅が任那を攻撃し、3県を奪取したのです。これを受けて、倭国内では「新羅を討伐すべき」との風潮が高まってきました。
継体天皇21(527)年6月3日。倭国は、近江毛野(おうみのけぬ:?~530)を将軍とする6万人の兵を、朝鮮半島に派遣することとなりました。この兵力で、新羅を威嚇して交渉することにしたのです。
近江毛野は、筑紫国造である磐井(いわい:?~528)に対し、出兵を求めました。磐井の下の名は分かっていません。この磐井は「毛野は昔は俺の同輩だった。なぜその毛野の指示に従わねばならないのか」と放言し、出兵を拒否します。のみならず、磐井は近江毛野の準備していた船から食糧を略奪してしまいます。完全に天皇に対する反逆ですね。
その後、磐井が新羅軍と協力して天皇に対抗しようとしていたことが判明します。
磐井の反乱を知った継体天皇は、物部麁鹿比を総大将とする磐井討伐軍を編成し、派遣します。
物部軍と磐井軍は激しく衝突し、継体天皇22(528)年11月11日に磐井は敗死しました。その墓は岩戸山古墳(福岡県八女市)と比定されています。磐井の子の葛子(くずこ)は、財物を差し出して命乞いをしたとの記述がありますが、その結果助命されたかどうかは不明です。
磐井の反乱が終結し、やっと朝鮮半島に出兵することが叶うようになりました。
継体天皇23(529)年3月。近江毛野はようやく任那日本府に入ります。毛野は新羅に対して任那3県を返還するよう交渉を開始しますが、うまくいきません。
交渉がうまくいかないばかりか、近江毛野は任那の人々からの支持を失っていきました。国民が任那日本府に提起してくる訴訟は、子供の認知問題が多かったのですが、近江毛野は審理もせずに盟神探湯(くかたち)ばかりで処理しようとしたのです。これでは民は納得しませんね。
任那の人々は、なんと新羅と百済に依頼して近江毛野を追い出そうとしました。元々、毛野は新羅を討伐して任那を助けるために送り出されたのに、まるで本末転倒です。
近江毛野は新羅・百済連合軍に大敗し、倭国から呼び戻され、やむなく帰国することになります。その帰国の途上、対馬で病死したといわれています。
