見出し画像

日本人の物語00668【鎌倉中期】宗尊親王の下向

 幕府の使者・二階堂行方が
「後嵯峨上皇の皇子の一宮(長男)か三宮(三男)のいずれかを将軍として下向させてほしい」
と書かれた書状を持って京に走ったわけですが、その書状が東海道を走っている最中の建長4(1252)年2月21日、九条道家は失意のうちに世を去りました。幕府から忌避された子(頼経)と孫(頼嗣)の将来を案じながらの死でした。
 さて、書状を受け取った後嵯峨上皇が次期将軍に選んだのは、長男の宗尊親王(むねたかしんのう:1242~1274)でした。
 宗尊親王は、仁治3(1242)年11月22日に側室の平棟子(たいらのむねこ:?~1308)が産んだ子ですが、このときすでに正室たる中宮姞子は妊娠しており、宗尊親王は産まれたその瞬間から皇位には就けない運命を背負っていたといえます。しかしながら、母の身分が低いとはいえ後嵯峨上皇は宗尊親王を大層可愛がっており、征夷大将軍という重職に就かせるのは上皇としても望外の喜びだったでしょう。
 そもそも後嵯峨上皇は、幕府に選ばれなければ天皇位に就くはずのなかった人物であり、幕府には終始友好的な態度を保っていました。「後嵯峨上皇の皇子ならば、九条家のように幕府に弓を引くことはないだろう」というのが時頼の狙いだったのでしょう。
 3月17日に宗尊親王の下向が決定され、3月19日に京を出発しました。そして4月1日に鎌倉に到着し、ちょうどその日に征夷大将軍への宣下がありました。
 宗尊親王は
「河の名も こととふ鳥も あらはれて すみたへぬるは 都なりけり」
と詠み、自らを東国を旅した在原業平になぞらえました。在原業平の歌に
「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが恋ふ人は ありやなしやと」(その名を都鳥と呼ぶくらいだから、聞いてみよう。私の恋するあの人は、都で今どうしているのだろう)
というものがあり、それにあやかって
「言問う鳥といわれる都鳥も現れてくれて、東国の地も住めば都といった趣きだ」
と歌ったのです。
 宗尊親王の到着と入れ替わりに、4月3日、廃将軍・頼嗣が京に向けて出発しました。祖父の死の知らせは既に届いていたでしょうから、最大の庇護者を失い、ひどく心細い出立であったことでしょう。その後、頼経は建長8(1256)年8月11日に赤痢のため38歳で病死し、頼嗣もその後を追うように9月25日、赤斑瘡により16歳で死去しました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集