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日本人の物語00128【人代後期】16代仁徳天皇*

 応神天皇の死後、皇位継承権をめぐる争いが勃発します。
 応神天皇は、末子の菟道稚郎子に皇位を譲ると明言していたのですが、長男の大山守が、皇位を狙って菟道稚郎子の殺害を謀ったのです。これを知った次男・大鷦鷯は、すぐに使者を送って菟道稚郎子に危険を知らせます。菟道稚郎子は、殺される前に長兄・大山守を殺してやろうと計画を練ります。
 菟道稚郎子は、大山守が宇治川を渡る際に殺してやろうと、卑しい身なりをして船頭になりすましました。そこへやって来た大山守が、弟の変装を見抜けず、船に乗り込みます。菟道稚郎子は大山守を突き落とし、その上で隠していた兵に矢を放たせ、大山守を殺害しました。大山守は那羅山(奈良市)に葬られました。
 こうして皇太子の殺害計画は失敗に終わり、反乱は未然に防がれました。その結果、兄・大鷦鷯と弟・菟道稚郎子の2人が生き残ったのですが……。
 皇太子だったはずの菟道稚郎子は、即位しようとしません。皇位は兄・大鷦鷯に譲りたいというのです。一方、兄もまた即位をためらい、兄弟で皇位を譲り合う状況となりました。菟道稚郎子は兄に皇位を譲るため、なんと自殺してしまいます。
 やむなく仁徳天皇元(313)年1月3日、大鷦鷯が即位しました。仁徳天皇です。
 一体、菟道稚郎子はなぜ即位しなかったか、よく分かっていません。「うじのわきいらつこ」という名前からしておよそ天皇になりそうにない名前ですよね。
 さて、前方後円墳ばかり話題になる仁徳天皇ですが、記紀には実に様々なエピソードが残っています。その中で、特に有名なのが「民のかまど」と呼ばれるエピソードです。
 仁徳天皇4(316)年2月6日。仁徳天皇は山に登って町を見下ろしました。すると、家々のかまどから炊煙が立ち上っていません。仁徳天皇はこれを民の生活が苦しい証拠だと考え、「税を3年間免除しよう」と決断します。
 税収がなくなったことで、宮殿の修理ができず、天井は破れことごとく雨漏りがするようになりました。仁徳天皇はその雨漏りを器で受けながら過ごしました。
 3年後の仁徳天皇7(319)年4月1日、仁徳天皇が再び山に登ると、家々のかまどから炊煙が立ち上っていました。これを見て仁徳天皇はようやく税を課すこととしたのでした。
 新古今和歌集には
「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑ひにけり」
という仁徳天皇の和歌が載っていますが、新古今和歌集は平安時代に編纂されたものですから、この歌は本人の作とは思えません。記紀よりもだいぶ後に作られたものでしょう。
 このエピソードから、仁徳天皇は後世「聖帝」と称えられています。

仁徳天皇の伝記。サブタイトルは「民のかまど」の和歌となっている。

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