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日本人の物語00252【平安前期】薬子の変

 大同5(810)年9月10日。平城京遷都の詔による混乱を収束するため、平安京にいる嵯峨天皇は取り急ぎ
「内侍司・藤原薬子が上皇の命令を偽造して権力を得ようとしている。これに惑わされてはならない」
との詔を発布しました。いわば上皇に対する宣戦布告ですね。さらに薬子らを捕らえるため、嵯峨天皇は坂上田村麻呂らを平城京に派遣しました。9月12日、平城上皇は東国に逃れようとしますが、田村麻呂の軍勢に行く手を阻まれ、断念します。
 薬子は捕らえられる直前に自害し、その兄の藤原仲成(ふじわらのなかなり:764~810)は捕縛され、その後射殺されました。あわせて、平城上皇の側近・藤原真夏は参議を解任されます。
 藤原内麻呂が、長男・真夏を兄・平城天皇に、次男・冬嗣を弟・神野親王(嵯峨天皇)に、それぞれ側近として仕えさせたという話をしましたね。結局、兄弟は武力衝突し、真夏は平城上皇に殉じる形で失脚してしまったわけです。実に不運でした。
 さらに平城上皇の子であった皇太子・高岳親王は廃され、代わりに平城上皇や嵯峨天皇の弟に当たる大伴親王(おおともしんのう:後の淳和天皇:786~840)が立太子しました。大伴親王というのは桓武天皇の7男に当たります。
 以上見てきた政変を「薬子の変」と呼ぶのですが、近年は「平城上皇が主犯であるから、平城上皇の変と呼ぶべきだ」と主張する歴史家が増えています。実際そのように記述された教科書も出てきています。
 さて、平城上皇に従っていた者たちは、ことごとく罰を受け、地位を失いました。平城上皇自身はさすがに殺されることはなく平城京で一定の待遇は与えられ続けたようですが、政治からは一切距離を置くこととなりました。幽閉に近い状態だったと考えられます。
 その後、平城上皇は弘仁15(824)年に崩御し、平城京を愛したことから「平城天皇」との諡名を贈られることとなりました。墓所も、平城京のはずれにある楊梅陵(やまももりょう)となりました。
 しかし楊梅陵は、古墳時代に作られた前方後円墳の後円部分を使いまわしたものです。仮にも天皇を経験した人物の墓所だというのに、過去の墓を使いまわしたのです。こんな例は他にはありません。晩年に起こした乱が原因で余程ひどい扱いを受けたようです。
 なお、廃太子された高岳親王は、その後出家して東大寺に入り「真如」と名乗りました。貞観4(862)年に唐へ渡り、さらにそこから天竺(インド)に向かう途中、貞観7(865)年に羅越国(マレーシア)で死去しました。
 平安時代前期に、皇族でマレーシアまで渡った人物がいたとは驚きですね。この航海の道中をテーマに、渋澤龍彦が『高丘親王航海記』という本を書いています。

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