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日本人の物語01374【室町/義教期】元服式をめぐって

遂にというべきか、やっとというべきか、幕府と鎌倉府の全面戦争が始まりそうです。

 持氏と憲実の対立はギリギリのところで武力衝突に発展せずに済んでいたのですが、永享10(1438)年6月に決定的な破局を迎えます。持氏が嫡子・賢王丸(けんおうまる:1423~1439)を元服させた際、本来なら鎌倉公方の嫡子は将軍を烏帽子親として一字もらって元服すべきところ、その慣習を無視したのです。
 このとき将軍は義教ですから、持氏の嫡男は「教氏」と名乗るべきところでした。しかし持氏は憲実の諫言を無視して、賢王丸に「義久(よしひさ)」と名付けたのです。将軍家に伝わる「義」を無断で使ったわけですから、これは完全な敵対行為でした。
 どうせというか、ついでというか、持氏はかつて憲実と仲直りするために退去させていた榎下上杉憲直と一色直兼を鎌倉府に復帰させました。面目をつぶされた憲実は再び自邸に引き籠もり、元服式にも参列しませんでした。その後も元服のやり直しを主張してやみません。
 こうして鎌倉にはまたもや戦の気配が立ち込めてきました。しかも今回は、大和永享の乱(01354回参照)とも連動する動きが出てきたのです。
 「大和永享の乱」とは既に述べたとおり、後南朝方の越智氏・豊田氏・箸尾氏と幕府方の筒井氏の争いであり、永享元(1429)年に始まり未だに終わっていません。永享7(1435)年に義教は反乱軍の大将・越智維通(おちこれみち)を討伐するための軍を派遣しましたが、越智維通は多武峰(とうのみね:奈良県桜井市)や冬野城(奈良県明日香村)に立て籠もって抵抗を続けています。
 永享9(1437)年7月11日夜、将軍義教の弟に当たる大覚寺義昭が京から逐電し、越智維通と合流しました。義昭といえば義持の死後、将軍の座をめぐるくじ引きの候補者となった1人であり、将軍になれなかったことを不服として反乱に身を投じてしまったようです。
 そして持氏が息子の元服式をめぐって幕府との対立を深めた直後の永享10(1438)年7月、義昭は天川(奈良県天川村)で挙兵しました。後南朝や持氏らと連携した上での反乱でした。
 ちなみに後南朝といえばかつて北畠満雅が擁立した小倉宮聖承がいたはずですが、彼は密かに京に戻っており、諸大名が捻出する月俸三千疋で生活を維持していました。だんだん分担金の支給が滞ってきて、永享4(1432)年2月29日に満済に対して
「もう餓死しそうです。何とかして下さい」
との書状を出して年金を支給するよう訴えています。もはや小倉宮は見る影もなく、反乱に加わる元気もなさそうですから、ここで義昭に加担した後南朝とは小倉宮と無関係な一団なのでしょうが、詳細は伝わっていません。
 いずれにせよ、持氏・義昭・後南朝といった義教に反感を持つ一味がつるんでしまったわけで、もはや戦乱は避けられそうにありません。

天川というと、浅見光彦シリーズの『天河伝説殺人事件』という作品がかつて流行って映画化もされたんですが、誰も知らないですよね・・・。

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