日本人の物語01199【南北朝最末期】右大将拝賀の恐怖
もう「室町時代」と言っても良さそうな時代であり、「南北朝時代」という雰囲気がしませんね。南朝の登場頻度もかなり低くなりそうです。
康暦の政変に前後して幕府への反逆を企てていた鎌倉公方氏満はすっかりおとなしくなり、天授5/康暦元(1379)年5月には野心のない旨の誓文を義満に送りつけて来ました。
頼之を失って失意の中にある義満ですが、7月25日には花の御所の工事が完了するとともに、「右大将拝賀の儀」を執り行うこととなりました。これは前年に権大納言兼右近衛大将に昇進したことに感謝の辞を述べる儀式であり、義満にとって重要な晴れ舞台です。
この右大将拝賀の儀は、将軍が他の公家よりも上位に位置することを見せつける場となりました。幕府は廷臣たちに金銭を渡して参加を募ったのですが、
「欠席すれば幕府の不興を買うらしい」
との噂が流れたことから、かなり多くの出席が得られたといいます。
三条公忠の日記には、この2ヶ月前に当たる5月のエピソードとして次のような話が描かれています。三条公忠は今出川実直(いまでがわさねなお:1342~1396)から、剣と帯の調達について相談を受けました。理由を聞くと「義満の拝賀に扈従(こしょう)するから」というのです。扈従とは、下位の者が上位の者に付き従うことを意味します。
さらに詳しく聞くと、西園寺公永(さいおんじきんなが:1353~1390)も洞院公定(とういんきんさだ:1340~1399)も三条西公時(さんじょうにしきんとき:1339~1383)も扈従するといいます。彼ら3名は既に権大納言なので、新たに権大納言に就任する格下の義満に扈従するのはおかしな話です。
不安に駆られた公忠が情報収集したところ、
「義満はここで扈従しない者を徹底的に干すつもりらしい」
との噂が耳に入ってきました。公忠自身は既に現役を引退した身なので扈従の必要はありませんが、息子の実冬を扈従させなければならないことに気づき、その準備に奔走します。公忠の日記には
「扈従の準備で忙しくなるので今日からしばらく日記は書かない」
とあります。
義満の右大将拝賀の儀は、殿上人37人の前駈(先導)と公卿21人の扈従を受け、大いに盛り上がりました。
そして権大納言となった義満の名声をさらに高める出来事が起こります。8月14日、春日神木がまたもや入洛したのです。
ここで興福寺との交渉に当たったのが、何と義満でした。興福寺は強気に交渉するものの、藤原氏でない義満に対しては「放氏」という武器が使えません。興福寺は1年あまり粘りましたが、翌天授6/康暦2(1380)年12月に何らの成果のないまま神木を帰座せざるを得ませんでした。まさに完全敗北です。
公家たちが解決できない問題が義満の力で解決されました。こうしたことを繰り返す中で、義満は武家だけでなく公家の世界でも位を極めていくのです。
