日本人の物語01514【室町/東国/享徳の乱】古河公方の成立*
高校時代は古河公方という名前を丸暗記しており、その意義について全く理解していなかった気がします。
古河に入った成氏は、ここを拠点に小栗城を陥落させ、数ヶ月で鎌倉に戻るつもりだったのでしょう。まさか鎌倉に生涯戻れないとは、さらには自分の死後も130年に渡って古河が拠点となり、5代に渡って「古河公方」と称されるようになるとは、夢にも思わなかったでしょう。古河館の建設はこの時点の成氏にとってはあくまで一時的な拠点の構築に過ぎませんが、我々後世の人間はこれをもって古河公方が成立したものとみなします。
成氏が住んだ館は古河内に2ヶ所あり、より長く過ごした方の館跡が現在「古河公方公園」として整備され、春には桃まつりが開催されることで知られています。
古河に到着した成氏は、小栗城を陥落させるのに予想以上の時間を要することとなります。その原因は、幕府が敵となったことでしょう。
幕府が憲忠謀殺の知らせを受け取ったのは、享徳4(1455)年1月5日のことでした。管領細川勝元率いる幕府はいち早く成氏討伐と上杉支援を決定し、1月16日には信濃守護・小笠原光康や駿河守護・今川範忠らに出陣命令を下しました。
しかしこのとき、信濃小笠原氏は
・清宗(きよむね:1417~1478)率いる府中小笠原家
・光康率いる松尾小笠原家
・政秀率いる鈴岡小笠原家
に分裂していました。ちなみに清宗というのは、以前登場した小笠原持長の嫡子に当たります(01509回参照)。
光康は出陣命令を受けたものの、
「敵対する府中小笠原家が成氏派に身を投じたらしい」
との情報が入ってきたせいで、なかなか信濃を出発できなかったようです。確かに留守中に本拠を奪い取られては一大事ですから、慎重さが求められるでしょう。結局、小笠原家は動いてはくれませんでした。
幕府が成氏討伐令を出したとの情報が少し遅れて古河の成氏のもとにも届き、それまで破竹の勢いだった成氏の進軍に陰りが見え始めます。
3月19日、成氏は配下の小田持家(おだもちいえ:1402~1486)・小山持政・簗田持助らに小栗城を攻めさせましたが、なかなか落ちません。3月22日には成氏軍の別動隊が上野国赤堀城と那波城(いずれも群馬県伊勢崎市)を攻略し、こちらは順調でしたが、小栗城は4月5日の総攻撃にも耐え抜き、どうにも落ちません。
そうこうしているうちに、幕府では成氏討伐のための手続きが進められていきます。成氏はどうも小栗城と長尾景仲にこだわり過ぎてしまったようです。
一昨年、古河公方公園に行くとひどく混雑していて戸惑いました。偶然もも祭りの開催期間中だったらしく、史跡巡りを目的に来ているのは私くらいでした。

