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日本人の物語00263【平安前期】承和の変 恒貞親王廃太子

 伴健岑は恒貞親王の身辺を守るべく、阿保親王に手紙を送ったわけですが、阿保親王はこの計画に乗らず、これを太皇太后の橘嘉智子(たちばなのかちこ:786~850)に知らせてしまいます。橘嘉智子は嵯峨上皇の皇后で、あの橘諸兄の曽孫に当たる人物です。
 橘嘉智子はあろうことか、伴健岑が最も恐れていた相手・藤原良房にこの手紙を見せてしまいます。嵯峨上皇の側近である良房は、嘉智子にとって頼れる相談相手だったのでしょう。
 この対立派閥の失態ともいえる手紙を利用しない良房ではありません。良房はさっそくこの手紙を仁明天皇に見せ、
「これは伴健岑による恐るべき政権転覆の計画です」
と報告しました。
 普通に考えて、恒貞親王とその側近である伴健岑に謀反を起こす動機があろうはずもありません。普通に構えているだけで天皇の位が転がり込んでくるわけですから、わざわざ兵を起こす必要もないのです。しかし、良房はこの機に乗じて言葉巧みに仁明天皇に説明し、この手紙の内容を謀反計画に仕立て上げてしまいました。
 そして、よりによってこのタイミングで、承和9(842)年7月15日、強い個性で存在感を放ってきた重鎮・嵯峨上皇が崩御しました。その日のうちに良房は
「伴健岑の反逆計画が発覚した」
と発表し、伴健岑・橘逸勢の両名を逮捕しました。
 2人は拷問を受け、伴健岑は隠岐に、橘逸勢は伊豆に、それぞれ流罪となりました。あわせて、この反逆に加担したとして恒貞親王は廃太子されてしまいました。
 新たに皇太子に立てられたのは、もちろん嵯峨系の男子でした。
「嵯峨天皇と藤原冬嗣の信頼関係は極めて固く、嵯峨の子(仁明)に冬嗣の娘を嫁がせた」
という話は既にしましたね。その間に生まれた子・道康親王(みちやすしんのう:後の文徳天皇:827~858)が立太子したのです。道康親王は良房にとって甥ということになりますから、全ては良房の望み通りに進んだといえます。
 伴健岑は、単に恒貞親王の命を良房の魔の手から守ろうとしただけなのでしょう。恒貞親王は皇太子の位を捨てて東国に逃亡し、そこで側近ともども安寧な余生を送ろうとしていただけだったのに、皇太子に据えられたばっかりに、このような政争に巻き込まれてしまったのです。実に不運でした。
 なお、そもそも伴健岑の手紙自体が偽造だった可能性も指摘されています。その場合、嵯峨上皇の病が重篤になったタイミングを狙って、良房が手紙を偽造して恒貞親王一派に無実の罪を着せ、葬ろうとしたということになります。この線も十分に考えられるところですね。

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