日本人の物語01248【室町/義満期】今川了俊解任
渋川氏が登場しましたが、前述のとおり群馬県渋川市を拠点としていた一族です。渋川市といえば伊香保温泉ですね。
これまで取り上げてきたように、九州における南北朝動乱は他の地域と違った独自の動きを見せていました。懐良親王を奉じた菊池武光が少弐・大友・一色らを次々と破り、九州はほぼ南朝方に統一されたのです。
その圧倒的不利な状況から勢力を盛り返し、九州を幕府の手に取り戻したのが九州探題・今川了俊でした。了俊は九州各国の守護職をきっともらえるだろうと期待していました。
応永2(1395)年閏7月。その了俊に帰洛命令が出されました。了俊は突然のことに戸惑いつつも、8月下旬には帰洛して九州での成果について報告しました。
ちなみに8月16日付けで大友親世が島津伊久(しまづこれひさ:1347~1407)に送った書状が現存しています。伊久とは、水島の変で了俊を裏切った島津氏久の甥に当たる人物ですが、その書状には
「新探題が就任するまで九州のことは私(大友)が代行する。一人では任務が困難なため大内義弘の協力を求めているところ」
と書かれており、これを受け取った伊久は大友に
「了俊の帰洛は実に喜ばしい。水島の陣以来の面目を回復したといえる」
と喜びのメッセージを送っています。南北朝の争いは終わったとはいえ、島津家は相変わらず了俊を嫌っているようです。
11月、恩賞を期待していた了俊に対して義満が出した指示は、九州探題の解任と、遠江と駿河半国の守護職への任命でした。25年にわたる九州平定の労苦に対して、それも圧倒的な成果を上げた了俊に対して、与えられたのは九州と無縁の領地1.5ヶ国だけとは、あまりに少ない恩賞です。了俊は九州探題解任の理由について、その回顧録『難太平記』の中で「大内義弘と大友親世に讒言されたため」と愚痴をこぼしています。
この了俊への冷遇の理由について、歴史家たちはいろいろな分析をしています。
〇了俊を登用したのは盟友の細川頼之であり、了俊は頼之の弟(養子)・頼元とも良好な関係を保っていたが、管領が頼元から斯波義将に交代したため了俊は後ろ盾を失った。
〇義満は九州における了俊の勢力拡大を恐れた。事実、了俊は倭寇を鎮静化させた上、高麗との独自外交を展開していた。
などの意見があります。
いずれにせよ了俊は九州探題から一守護の座に転落し、以後は駿河を拠点とした大名として発展していきます。その後、了俊の兄・範氏の家系があの有名な今川義元につながります。
応永3(1396)年2月。了俊の後任として九州探題に就任したのは、渋川満頼(しぶかわみつより:1372~1446)でした。満頼はあの九州上陸すらできず何の成果も上げられずに終わった九州探題・渋川義行の息子ですから、了俊は歯がゆい思いだったでしょう。
