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日本人の物語00345【平安中期】道長と三条天皇の対立

 一条天皇が崩御し、彰子の悲しみは相当なものだったようですが、一方で道長は何も感じなかったようです。
 前述したとおり、御堂関白記には「崩給」と書くべきところを「萌給」と誤字が記されており、「そんな肝心なところで間違うなんて」と思ってしまいます。さらに、一条法皇の火葬が終わってから、道長は本人が土葬を望んでいたことを思い出したが遅かったとの記述もあります。本当に最後まで道長は一条天皇に冷たいですね。
 説話集『古事談』には、一条天皇の遺書に「邪臣が国を乱す」と書かれてあり、道長が慌ててそれを破ったとのエピソードがあります。それほど仲が悪かったのでしょう。
 長和元(1012)年2月14日。遵子が太皇太后に、彰子が皇太后に、妍子が中宮に、それぞれ立てられました。
 この2ヶ月後、三条天皇が「娍子を皇后に据えたい」との意向を示したため、道長は渋々これを認めました。
 娍子は対立派閥である藤原済時の娘ですから、道長としては娍子が皇后となるのは嫌だったでしょう。三条天皇がそれほど娍子を寵愛していたのか、はたまた単に道長の血を入れたくなかっただけなのか、分かりません。
 この娍子が立后される儀式の日に、道長は饗宴を開いて公卿らを招きました。そのため、立后儀式は実資や隆家ら4人しか出席しない閑散とした状態で行われました。道長による嫌がらせです。それどころか道長派の藤原正光(ふじわらのまさみつ:957~1014)は、儀式出席を求める使者を投石して追い返したといいます。こういう長いものに巻かれていじめをエスカレートさせる奴って昔からいるんですね。
 さらに三条天皇と道長の仲の悪さを象徴するエピソードが『古事談』にあります。ある日、道長の申請したことを三条天皇が許可せず、道長は怒って退席しました。天皇は息子の敦儀親王(あつのりしんのう:997〜1054)に、道長を呼び戻すよう指示し、敦儀親王が道長に「天皇がお呼びである」旨を告げたところ、道長は、
「小桟敷に立ったまま私に話しかけるとは何事だ」
と親王を罵り、そのまま退出したというのです。あまりの傍若無人ぶりですね。
 長和2(1013)年。三条天皇が華美な装束を禁止したにもかかわらず、賀茂祭で道長の行列がひどく華美な装束を着ていました。「天皇の命令何するものぞ」という強硬な態度が見てとれますね。
 天皇と道長の対立はまだまだ続きます。同年、三条天皇は「藤原懐平(ふじわらのかねひら:953~1017)を権中納言に昇進させたい」と提案しました。道長が「中納言が7人になることは前例がない」と反対しますが、天皇はこれを強行します。
 三条天皇はどうにか道長の権勢を削ごうと頑張っているように見えますね。

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