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日本人の物語01640【室町/西国/六角征伐】一休宗純の生涯

一休は、大河ドラマ『花の乱』では奥田瑛二が演じていました。森侍者は檀ふみでした。

 文明13(1481)年は一休宗純(いっきゅうそうじゅん:1394~1481)が死去した年です。
 一休さんといえば「このはしわたるべからず」や「屏風から虎を追い出してください」といったとんち話で有名な人物ですが、そのほとんどは後世の創作であり、実像は分からないことだらけです。
 一休宗純は後小松天皇がある官女に産ませた子で、その官女は楠木正成の曾孫だといわれていますが、これ自体怪しいものです。そういえば後小松天皇が足利義満の隠し子との説がありますが(01216回参照)、それも信じるとすると一休さんが義満の依頼で屏風の虎を退治しようとしたあのエピソードは、祖父と孫の話だったことになりますね。
 6歳で出家して安国寺(京都市下京区)に入った一休は、40歳のときにカラスの鳴き声を聞いて悟りを開いたといわれ、それ以降は詩や狂歌、書画の創作生活に入りました。
 その生活は戒律とは無縁の風狂なものだったらしく、飲酒・肉食はもちろん、盲目の森侍者(しんじしゃ)という女性を妻にしていました。一休の詠んだ
「釈迦といふ いたづらものが 世にいでて おほくの人を まよはするかな」
という歌は、僧でありながら仏道に縛られない自由奔放な生き方を象徴しています。
 このような破戒僧でありながら一向宗(浄土真宗)とは良好な関係を結んでいたらしく、本願寺で行われた親鸞の二百回忌に参列し、
「えりまきの 温かそうな 黒坊主 こいつの法が 天下一なり」
などと上から目線の狂歌を詠んだり、蓮如の留守中に部屋に上がり込んで、阿弥陀如来像を枕に昼寝をして怒られたりしたとの逸話もあります。
 一休は81歳のときに後土御門天皇の命で大徳寺(京都市北区)の住持となりました。しかし、こうした高貴な身分を与えられるのが嫌だったのか、寺には住まずにあちこちを渡り歩きました。
 民衆に愛され、漂泊の人生を送った一休は、文明13(1481)年11月21日に酬恩庵(京都府京田辺市)で死去しました。88歳でした。それまでに
「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
「世の中は 食うて糞して 寝て起きて さてその後は 死ぬるばかりよ」
などと死を達観した歌を詠んでいたのに、臨終の際の言葉は
「死にとうない」
だったそうで、最後まで人を食った人物でした。

一休の和歌はヘンテコなのばかりですね。いっぱい詠んで歌集を作ったら売れたでしょうね。

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