日本人の物語01224【南北朝最末期】明徳の乱 六分の一殿
「全国66ヶ国」と自分で書いておきながら「あれ? 68ヶ国じゃなかった?」と不思議に思い、調べてみました。Wikipediaによると対馬国・壱岐国を外して66ヶ国とカウントする場合もあるのだそうです。なるほど。
いよいよ南北朝動乱のラストを飾る一大決戦、「明徳の乱」について語るべき時が来ました。これは一言でいえば「山名氏清の反乱を義満が鎮圧した事件」なわけですが、氏清が反乱を起こすまでには、義満側からの様々な挑発がありました。
山名といえば、古くは時氏という大物当主がいましたね。今川了俊が晩年に著した回顧録『難太平記』の冒頭には、了俊が聞いたという山名時氏の言葉が記載されています。
「私の子孫は間違いなく朝敵となるだろう。なぜなら私は建武以来、将軍のおかげで出世することができたが、元弘以前の時代は上野国でただの百姓のような暮らしをしていたので、我が身のほどもわきまえているし、戦乱の悲惨さも知っている。それでもなお、ややもすれば将軍を疎かに思う気持ちがふと出てくることがある。私の子や孫の時代になれば、将軍の御恩も親の恩も知らず、自分のわがままばかり主張して分際をわきまえない行動をするようになるだろう。その結果、御不審をこうむることになるだろう」
これは何とも不思議な発言です。というのも、時氏自身も幕府を裏切り南朝方についた時期があったはずなのです。自分を棚に上げて「子や孫が朝敵になるだろう」とは解せません。
さて、山名家の家督問題については以前詳しく説明しました(01188回参照)。天授2/永和2(1376)年に時氏の長男・師義が死去し、その後継に時氏の五男・時義が据えられたことが内紛を生んだのでしたね。まとめると次のとおりです。
時義派: ①五男時義②長男師義の次男にして時義の養子・氏之③時義の実子・時熙
反時義派: ①次男義理②四男氏清③長男師義の四男満幸④三男氏冬の子・氏家
こうした内紛の中で、元中6/康応元(1389)年5月4日に当主時義が死去しました。伯耆と隠岐は時義養子の氏之が、但馬は時義実子の時熙が継承します。
この時点で山名家は、
・時熙(時義派)が但馬・備後国守護
・氏之(時義派)が伯耆・隠岐国守護
・義理(反時義派)が美作・紀伊国守護
・氏清(反時義派)が丹波・和泉国守護
・満幸(反時義派)が丹後・出雲国守護
・氏家(反時義派)が因幡国守護
と11ヶ国を有していました。全国66ヶ国のうち六分の一を占めていることから、「六分の一殿」などと呼ばれていたようです。さらにこの後、山城国も氏清の領国となるので、最盛期には12ヶ国を持っていたことになります。
これだけの権力を手にした山名家を、義満が放っておくわけがありません。義満は山名家が二派に分裂しているのをいいことに、これをつぶそうと画策するのです。
