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日本人の物語00468【平安末期】金砂城の戦い

 治承4(1180)年11月。富士川の戦いに敗北した維盛が、福原に帰ってきました。清盛は激怒して
「維盛を鬼界ヶ島に流せ」
と指示しましたが、周囲に止められ実現しませんでした。
 一方、頼朝軍は大勝利に沸き立っていました。このまま福原へと兵を進めたいところですが、そうはいきません。というのも、関東には
・足利俊綱(あしかがとしつな:?~1180?)
・新田義重(にったよししげ:1114~1202)
・志田義広(しだよしひろ:?~1184)
など、まだ頼朝に服属していない者が大勢いるので、鎌倉を留守にして平家打倒に出かけると、挟み撃ちにされるリスクがあるのです。
 ここで新田氏と足利氏が登場したので、両者を簡単に紹介しておきましょう。時は遡り、久安6(1150)年、源義国(みなもとのよしくに:1091~1155)が参内中、徳大寺実能(とくだいじさねよし:1096~1157)に無礼を働いたとして、実能の家人に馬から引きずり下ろされてしまう事件が起こりました。怒った義国の家人が実能邸に放火してしまい、義国は逮捕を免れるため領地・下野国足利荘(栃木県足利市)に退きました。
 その義国には2人の子が産まれました。長男・義重は新田荘(群馬県太田市)に土着し、新田義重と名乗り始めました。この新田義重の7代子孫が有名な新田義貞です。
 一方、次男・義康は足利荘に土着し、足利義康(あしかがよしやす:1127~1157)と名乗り始めました。この足利義康の7代子孫が有名な足利尊氏です。
 では、上に掲げた足利俊綱とは誰なのかというと、これがまたややこしいのですが、足利義康に始まる足利氏とは全く別の、足利荘に土着していた豪族です。恐らく血のつながりはないと思われます。どこかの段階で頼朝に滅ぼされたようなのですが、詳しくは分かっていません。
 とにかく、関東にはまだ頼朝に服属していない豪族が多かったため、頼朝は福原京を目指すことができませんでした。そこでまずは、常陸(茨城県)の佐竹氏を討伐することとなりました。10月27日、佐竹秀義(さたけひでよし:1151~1226)を追討するため、頼朝たちは鎌倉を出発しました。
 11月5日、佐竹の居城である金砂城(かなさじょう:茨城県常陸太田市)で戦闘が始まりました。頼朝軍が佐竹秀義の叔父・義季(よしすえ)を内応させ、義季が城の裏手から大声を城内に響かせたところ、城内は大混乱に陥り、佐竹秀義は命からがら逃亡しました。戦いは頼朝の大勝利に終わったのです。
 12月22日には新田義重が、翌治承5(1181)年1月11日には梶原景時が、それぞれ頼朝に帰順することを決めました。頼朝は着実に味方を増やしていきます。

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