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日本人の物語01502【室町/西国/大乱前夜】義政のてのひら返し

統治権を預かるからには「一貫性」って重要だなと思います。もちろん数年単位でポリシーが変わることはあり得るでしょうが、数日単位でコロコロ変わるようでは誰もついていけません。

 文正2(1467)年1月1日。反逆者たる畠山義就が上洛して1週間が立ち、元日となりました。例年、元日には管領が将軍を訪問して挨拶をする決まりです。この日も管領・畠山政長が将軍に謁見し挨拶をしました。この時点では義政は政長の謁見を許していたわけですから、政長が管領であることを認めていたはずでした。
 ところが翌2日に思わぬ出来事がありました。毎年1月2日には逆に将軍が管領の邸宅を訪問する決まりとなっていたのですが、なんと義政は政長邸へのお成りを中止し、将軍御所に義就を招き、二度目の謁見を許したのです。
 このてのひら返しはなぜ起こったのでしょうか。中世史学者の呉座勇一氏は
「義就の上洛によって山名方が有利になったからではないか」
と推理しています。つまり義政に一貫性はなく、その都度有利な方に味方をするわけで、何とも困った将軍です。突然見捨てられた政長は
「この4、5年、一所懸命に奉公してきたのに、何ゆえの勘当であろうか。全く合点がいかない」
と呟きました。
 1月5日。この日は毎年将軍が畠山家の惣領を訪れる決まりとなっていました。この日、義政はなんと義就邸を訪れました。といっても、畠山家の邸宅には政長が居住しており、義就に家はありません。義就はやむなく山名宗全邸を借りて、そこを自らの居宅とみなして義政・義視を迎え、饗宴を開いたのです。この義政の行為は、畠山家の家督は政長ではなく義就にあると認めたといえるので、この日に家督が移ったものとみなす文献もあります。
 この饗宴のさなか、畠山義就は
「畠山邸は元々私の邸宅だから接収したい」
とおねだりをしました。義政は即座にこの願いを叶え、1月6日に政長に対して万里小路にある屋敷を差し出すよう命じました。
 しかし政長は宿老・細川勝元を通してこれを拒否する旨を回答しました。わざわざ勝元を通して回答するあたり、これが畠山政長・義就の対決ではなく、実際には勝元と宗全の対決であることを表しています。
 家を追い出されるおそれが高まった政長は、自邸に兵を集めて防備に当たります。将軍の命令だろうがテコでも動くまいという気概が見てとれます。

将軍義政が何を考えているのか本当に分かりません。

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