日本人の物語01157【南北朝後期】貞治の変 仁木義長帰洛
南北朝時代に活躍する家の中には、戦国時代には影も形もなくなっている家が多いですね。仁木も戦国時代に何をしていたやら、ほとんど聞いたことがないですね。
斯波高経が越前に逃亡していくと、幕府軍はそれを追撃しようと追っていきます。
そこに立ちはだかったのが、斯波家家臣の二宮信濃守(にのみやしなののかみ)でした。二宮信濃守は越前守護代まで務めた人物ですが、残念ながら実名が伝わっていません。
幕府方の大軍勢が追ってくる中、長坂峠(京都府宇治市)で待ち構えていた二宮信濃守は、
「我々が都で戦をしなかったのは、幕府方を恐れたからではなく、将軍に遠慮したためである。もはや都を遠く離れ、夜も明けた。今なら何の躊躇もなく戦ができる。さあ、馬の腹帯が伸びる前に早くかかってくるがよい。我々の首を差し上げるか、逆にそなたらの首をいただくか、二つに一つだ」
と叫びました。そのあまりの迫力に、おそれをなした幕府方は戦わず逃げ帰ってしまいます。
越前に到着した高経は杣山城(そまやまじょう:福井県南越前町)に籠もり、息子の義将を栗屋城(福井県越前町)に籠もらせました。義将はせっかく管領に就任したのに、父の失脚と同時に京から追放されたようです。空いた管領職にはこの後、細川頼之が就くこととなるのですが、詳しくは後述します。
正平21/貞治5(1366)年8月12日、つまり高経が京を出た4日後のことですが、春日大社と興福寺はようやく目的を達成して気が済んだらしく、神木を引き取っていきました。高経による年貢の押領もなくなり、無事に神社の行事も行えるようになったといいます。神木の帰座に伴い、春日大社では久しぶりに関白・二条良基や他の公卿たちを招いた神事が行われました。
さて、杣山城と栗屋城それぞれに立て籠もる斯波軍に対して、義詮は討っ手として畠山義深、京極高秀、六角氏頼ら7千騎を派遣しました。10月から幕府軍が杣山城と栗屋城を攻め始めますが、この2城は難攻不落で全く落とせそうにありません。結局、この戦いは1年近く続きます。
そんな中、もう一人の反逆者・仁木義長がひょっこり京に戻ってくることになりました。伊勢に下っていた仁木義長は南朝方に寝返っていたものの、その後特段の活躍を見せることもなく、遂に幕府に対して
「過去の罪を悔いて降参したい」
と申し出てきたのです。大内弘世や山名時氏が幕府に戻ったのを見て、自分も許してもらえると思ったのでしょう。
義詮がこれを許したため、義長の帰洛が叶いましたが、その後義長に重職が与えられることはありませんでした。
