日本人の物語01200【南北朝最末期】第一次小山義政の乱
小山駅前のお土産屋さんで「まんが小山の歴史」というのを買ったのですが、小山義政の乱はかなり詳しく取り上げられていました。ちなみに読み方は「こやま」ではなく「おやま」です。
天授6/康暦2(1380)年5月16日。下野国裳原(栃木県宇都宮市)で小山義政(おやまよしまさ:?~1382)が宇都宮基綱(うつのみやもとつな:1350~1380)と交戦し、基綱を討ち死にに追い込みました。原因はよく分かっていませんが、境界争いがあったものと思われます。
宇都宮基綱は、以前「平一揆の乱」を起こした宇都宮氏綱の子であり、鎌倉府にとっては敵対勢力です。
一方小山家はというと、当主である朝郷が南朝方についた一方、その弟の氏政(うじまさ:1329~1355)が北朝方についたため対立が深刻化し、北畠親房が書状の中で「兄弟合戦」などと称するほどでしたが、朝郷の死後は氏政が家督を継いだことで一家そろって北朝方となり、ついで尊氏党となりました。そして氏政の死後、その嫡子である義政が家督を継いでいました。
つまり小山義政は尊氏党であることから、鎌倉府からみて名目上は味方なのですが、感情的には敵対勢力ということになります。宇都宮と小山の争いは敵対勢力同士の争いというわけです。
直義党の流れを汲む鎌倉公方氏満は、何かきっかけさえあれば小山家をつぶしてやろうと考えていたのでしょう。制止命令を無視して宇都宮家を攻撃したことを理由に、氏満は小山義政討伐令を出しました。その上、自ら小山討伐に当たろうと6月15日に鎌倉を出発し、小山(栃木県小山市)に向かいました。
8月9日に義政の居城である祇園城(栃木県小山市)の北口で合戦したのを皮切りに、氏満方の怒涛の波状攻撃が始まります。
・8月12日:大聖寺陣取合戦
・8月16日:祇園城内合戦
・8月23日:天王口合戦
・8月29日:義政屋敷西木戸口合戦
戦の詳細は伝わっていませんが、連日に渡る攻撃といえるでしょう。
9月19日、遂に小山義政から降伏する旨の通知が来たことから、氏満は攻撃をやめました。
ところが事態はまだまだ収束しません。小山義政本人が直接氏満のもとに出頭して謝罪すべきところ、何かと理由を付けてやってこないのです。氏満の中で義政への不信が募っていきます。
結局、翌年1月には再び義政討伐が決定されることとなるのですが、ここまでの戦いを「第一次小山義政の乱」といいます。
