日本人の物語01145【南北朝後期】長者原の戦い
時系列順に書くと場所がポンポン飛びますね。かといって地域別に書くと時系列がぐちゃぐちゃになります。なかなか悩み所です。
ここでまた九州に目を転じます。
九州では筑後川の戦いで南朝方・菊池武光が少弐・大友を破ったのでしたね。幕府はテコ入れを考え、斯波氏経(しばうじつね)を九州探題として派遣しました。氏経は斯波高経の次男に当たります。
氏経はまず兵庫に向かい、九州攻めのための軍勢を集めましたが、なかなか集まりません。やむなく250騎程度の軍勢で九州に向かいますが、やる気のない兵たちは船に遊女を乗せて進軍しています。このとき、氏経の軍勢を見物していた者が、
「遊女を連れているようでは、兵の士気は上がらないだろう。大将がこの程度のことも分からないようでは先が思いやられる」
と発言したといいます。
斯波氏経は大友氏時・少弐冬資(しょうにふゆすけ:1337~1375)らと合流します。既に少弐頼尚は高齢のため、軍を率いていたのは頼尚の子・冬資でした。頼尚は長男に「直資」、次男に「冬資」という名をつけており、足利直義・直冬から一字もらっているのですが、皮肉なことに結局北朝方(尊氏党)についてしまったわけです。
斯波氏経の動向について情報を得た菊池武光は、敵が十分に集まらないうちに戦おうということで、正平17/康安2(1362)年9月23日、5千騎で豊後に向かいました。
一方の斯波氏経は、
「九州鎮圧のために派遣された私が、敵の城へ攻め寄せるよりも前に敵から攻められたとあっては名折れである。敵をただ待つわけにいかない。こちらから赴いて戦おう」
と言って、7千騎で長者原(ちょうじゃばる:福岡県粕屋町)に出陣しました。
9月27日。南朝方の菊池軍と北朝方の斯波・大友・少弐連合軍が長者原で激突しました。緒戦は北朝方が優勢で、菊池軍は退却していきます。そこに救援に来た城武顕ら500騎が加勢したことで菊池軍は徐々に逆転し、逆に斯波・少弐・大友らが退却していきます。
長者原の戦いに勝利した菊池武光は、そのまま3千騎で豊後へと進軍していきます。敗走した斯波氏経と大友氏時は豊後高崎城(大分県大分市)に、少弐頼尚は岡城(大分県竹田市)に、それぞれ立て籠もりました。
懐良親王を推戴する菊池武光は、豊後府中(大分県大分市)に陣を構えてこれらの城を攻撃しました。結局、幕府方は菊池の勢いを抑えられず、九州は南朝の征服下に置かれたまま正平17/康安2(1362)年は過ぎていきました。
九州で幕府方が勢いを取り戻すのはまだまだ先のことです。
