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日本人の物語01512【室町/東国/享徳の乱】享徳の乱勃発

私が高校生だった頃、古河公方足利成氏の名は教科書に載っていましたが、享徳の乱という事件は掲載されていませんでした。今は載ってるそうです。

 かねてより起こっていた鎌倉公方成氏と関東管領憲忠の対立が遂に火を噴き、成氏が憲忠を殺害するという事態になりました。
 この殺害計画に加わった成氏の側近は結城成朝・武田信長・岩松持国・一色直清・里見義実(さとみよしざね:1416~1488)といった顔ぶれです。一方、憲忠と一緒に殺されたのは山内上杉家家宰の鎌倉長尾実景とその子・景住(かげずみ:?~1454)でした。
 若干不思議なのですが、成氏はなぜ謀殺のターゲットとして憲忠と実景を選んだのでしょう。憲忠は関東管領とはいえ22歳で、実権は家宰である長尾家に牛耳られていましたし、その長尾家についても事実上の当主は景仲です。景仲は江ノ島合戦の敗戦で隠居を強いられ当主の座を弟の実景に譲り渡していたとはいえ、まだまだ景仲が実権を握っていました。景仲を殺さなければ上杉一族の勢いは収まらないでしょう。事実、実景の死を知った景仲は家宰職に復帰し、成氏打倒に燃えることとなります。
 さて、長尾家は鎌倉長尾、惣社長尾、犬懸長尾、白井長尾など複数の家に分かれていました。景仲は鎌倉長尾家の出身ですが、上野国白井城(群馬県渋川市)を拠点とする白井長尾家の養子となっていた上、他の家は当主が幼かったため、白井長尾家の権力は絶大なものとなりました。これ以降家宰職は白井長尾家の独占状態となります。
 ここから成氏と上杉一族の約30年に渡る戦いが始まるのですが、この戦いには長らく名称が付いていませんでした。昭和期になってから中世史学者の峰岸純夫(みねぎしすみお:1932~)氏が「享徳の乱」という名を提唱し、近年やっとそれが高校日本史教科書に載るようになりました。
 享徳の乱の主役はもちろん幕府に反旗を翻した足利成氏(18歳)ですが、もう一方の主役は鎮圧軍の面々です。関東管領(山内上杉氏の当主=憲忠)は殺されてしまいましたが、その他のメンバーをここで紹介しておきましょう。括弧内は享徳4(1455)年時点での数え年齢です。
 扇谷上杉家当主: 扇谷上杉顕房(21歳)
 越後上杉家当主: 越後上杉房定(25歳)
 山内上杉家家宰: 長尾景仲(68歳)
 扇谷上杉家家宰: 太田道真(45歳)
 この中で一族を引っ張っているのは、やはり長尾景仲です。
 ここで扇谷上杉顕房(おうぎがやつうえすぎあきふさ:1435~1455)が初登場しました。扇谷上杉家の事実上の当主は顕房の父・持朝(40歳)ですが、当時は元服したら早めに家督を継承する文化があったようですね。
 主君の横死を知った長尾景仲は上杉・長尾一族を率いて鎌倉を脱出し、戦に備えました。いよいよ両者の本格的な武力衝突が始まります。

ふと思いついて年齢を調べてみたのですが、年齢を見て初めて分かることがあるものですね。

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