日本人の物語01559【室町/西国/応仁の乱】西幕府の成立
かつて高校日本史の問題で「義視を推す勢力と義尚を推す勢力、どちらが東軍でどちらが西軍か」を問う問題を見たことがあるのですが、応仁元年の話なのか応仁2年末以降の話なのかによって答えは変わってくるんですよね。まあ高校レベルでは義視の裏切り劇は学ばないので、応仁元年時点の状況を答えるのが正解のようです。
義視が西軍方に寝返ったことは、幕府を大きな混乱に陥れました。
勢い付いた西軍は、幕府に対抗して義視を「新将軍」と呼びました。既に「管領」と呼ばれている斯波義廉がいますから、これで将軍と管領が揃ったことになります。
一方の東軍は、もちろん義政を将軍とし、細川勝元を管領としていますから、東軍・西軍の双方に将軍も管領もいる状態となりました(西軍は自称ですが)。これ以降、西軍は独自に守護を任命し始めたりして、一つの国に東軍方の守護と西軍方の守護が入り乱れたりする混乱の時期が続きます。
そこで、これ以降の西軍の統治機構を「西幕府」と呼び、東軍の統治機構を「東幕府」と呼ぶことがあります。ただし、この呼称は近代の歴史学者が命名したもので、当時からそう呼ばれていたわけではありません。本稿ではこれ以降、単に「幕府」というと義政のいる東幕府を指します。
西軍方に自称とはいえ統治機構が揃ってしまったことから、東軍方はその権威を奪うことに躍起になりました。
応仁2(1468)年11月25日。激怒した義政は、義視の官位を全て剥奪した上、朝廷から治罰の綸旨・院宣を申請し、これが12月5日に認められました。つまり後土御門天皇の綸旨と後花園法皇の院宣の両方を手にしたのです。合わせて、西軍に味方していた公家・葉室教忠(はむろのりただ)ら9人の官位も剥奪されました。
これで義視は朝敵となりました。西軍で追討の院宣が出されているのは宗全に続き2人目です。
つまり西軍は、将軍を名乗れる人物を手にした代わりに、朝敵の汚名を着ることとなったのです。得られたものと失ったもののどちらが大きいかは意見の分かれるところでしょうが、これ以降義視は西軍でも持て余す「無用の人」となってしまうので、不利益の方が大きかった気がします。
東軍側は徹底的に義視を干すべく、応仁3(1469)年1月に家督継承について決定を下しました。5歳の義尚を相続人とする旨を発表したのです。
これまで義視の後見人だった細川勝元が義尚の支援に回ったことについて、世間では
「細川は 八里が中を 流れけり あなたにも四里(寄り) こなたにも四里」
と揶揄しました。つまり
「細川という川は、向こう岸まで四里、こちら岸まで四里で、八里ある」
という言葉に乗せて、あちらに寄ったりこちらに寄ったり態度をコロコロ変える勝元を皮肉ったのです。
市井の人たちは、こうした複雑な権力闘争をよくリアルタイムで理解していたようですね。
