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日本人の物語00610【鎌倉前期】84代順徳天皇

 権力欲旺盛な後鳥羽上皇はさらにワンマン体制を強め、朝廷内の人事や財産管理を好き勝手に切り盛りしていきます。
 以前、在子が通親と密通しているとの噂が流れたせいで、後鳥羽上皇の寵愛が在子や在子の産んだ土御門天皇から、重子や重子の産んだ守成親王に移ったことを既に述べました。この時期、後鳥羽上皇は長男・土御門上皇を冷遇し、何かと次男・守成親王をひいきしていました。
 その例として、八条院領という荘園群の扱いが挙げられます。
 八条院領とは、かつて鳥羽法皇とその寵姫である美福門院得子が権勢を振るっていた頃に、様々な寺社や貴族から寄進を受けて大規模なものとなった荘園です。鳥羽法皇と美福門院得子の死後、その間に生まれた八条院暲子(はちじょういんあきこ:1137~1211)がこれらの土地を相続していました。
 ちなみに八条院暲子は、後白河法皇と藤原成子の間に産まれた以仁王の養母となり、以仁王の挙兵を経済的に支援したことが疑われている人物です。清盛も八条院暲子を疑ってはいたものの、さすがに莫大な土地を所有し経済的影響力を有する八条院に手を出すことはできず、不問に付したといわれています。
 その八条院暲子がその後病に倒れ、暲子の養子となっていた春華門院昇子(しゅんかもんいんのぼるこ:1195~1211)がこれを相続しました。
 承元2(1208)年8月8日、後鳥羽上皇は、12歳の昇子を10歳の守成親王の准母(じゅんぼ)に定めました。准母とは、天皇の母が死去したり身分が低すぎたりして、各種儀式に出席させるべき母が不在の際に、別の者に天皇の母を模擬的に演じさせることをいいます。養子縁組に近いものと思っていただければよいでしょう。
 守成親王から見て僅か2歳年上に過ぎない昇子を准母とした狙いは、明らかに莫大な八条院領を守成親王に相続させる点にありました。後鳥羽上皇は守成親王に財産を残すため、強引かつ露骨な手法で地位の強化を図ったのです。
 承元4(1210)年11月25日、後鳥羽上皇は遂に土御門天皇に譲位を命じました。こうして皇太子・守成親王が即位しました。順徳天皇です。
 その後、順徳天皇は建暦元(1211)年11月8日の昇子内親王の死をもって、八条院領を相続することとなりました。後鳥羽上皇の狙い通り、順徳天皇は莫大な財産を手にすることとなったのです。

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