日本人の物語00253【平安前期】最澄と空海 最澄の弟子入り*
平城上皇の失脚により、名実ともに嵯峨天皇の治世となりました。
ここで、弘仁3(812)年から弘仁7(816)年にかけて発生した最澄と空海の対立事件について取り上げておきたいと思います。
いつ頃のことかは不明ですが、最澄は空海に対し、
「私も密教を極めようと思っているが、密教の奥義を持ち帰ったあなたにはとても及ばない。是非教えを乞いたい」
と手紙を書き送りました。
最澄にとって空海は7歳年下です。しかも最澄がかなり早い段階から名声を集めていた名僧であるのに対し、空海は最近唐から帰国して知られるようになった僧です。明らかに格下の相手に対して、このように謙虚な形で接触してきたわけですから、最澄・空海いずれの弟子たちもひどく驚いたことでしょう。
これに対し、空海は
「比叡山にお伺いできず申し訳ありません。ぜひぜひお会いして語り合いましょう」
と返信しました。この直筆の手紙は『風信帖(ふうしんじょう)』と呼ばれ、国宝に指定されました。現在、京都の教王護国寺(東寺)に保管されています。
このように、両者の交流は穏やかに始まりました。何度か手紙のやり取りを経て、弘仁3(812)年、最澄は弟子の泰範(たいはん:778?~?)らを連れ、高雄山寺(京都市右京区)の空海のもとを訪れました。そこでなんと最澄は、空海に弟子入りを志願します。
最澄は空海から灌頂(かんじょう)を受け、高雄山寺にこもり修行を開始しました。灌頂を受けるというのは、僧としての地位を引き上げる儀式の一つです。
翌弘仁4(813)年。最澄は
「そろそろ真言の最終奥義を授けてほしい」
と空海に言います。しかし空海の返事は
「まだ数ヶ月しか修行していないのに最終奥義は教えられない。3年はかかる」
というものでした。最澄は
「しかしあなたは唐に留学中、半年で奥義を極めたというではないですか」
と食い下がります。もっともな主張だと思います。空海は
「私は日本にいたときから密教をずっと学んできたのだ。だからこそ半年で極めることができたのだ。通常は早くても3年かかる」
と言って教えてくれません。
空海の態度は、若干尊大なようにも思えますね。
最澄はやむなく、「では弟子の泰範を残していくので、泰範に奥義を伝授願います」といって、泰範を空海のもとに残し、比叡山に帰ることとしました。この泰範の扱いをめぐって、両者に決定的な亀裂が入ることとなります。

