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日本人の物語01641【室町/西国/六角征伐】陶弘護刺殺事件

編年体で通史を書くときのジレンマ「話が飛び飛びになってしまう」を解決できないままここまで来てしまいました。もう読みやすさは犠牲にしてこのまま行くしかありません。

 周防国の大内家の動向について見ていきましょう。
 乱終結後に周防に帰国した大内政弘が、豊前・筑前を制圧し少弐政資を敗走させたことは既に述べました(01631回参照)。その後も政弘は安芸・石見の国人を従属させ、北九州や瀬戸内海の海賊を平定していきましたが、そのさなかの文明14(1482)年5月27日に不思議な事件が起こります。
 この日、大内政弘は諸将を慰労するため築山館(山口県山口市)で酒宴を開いていました。その席上で突然、吉見信頼が陶弘護を刺殺したのです。大内道頓の乱に参加していた吉見にとって、この乱を鎮圧した陶は怨敵だったのでしょう。吉見信頼はこの直前に家督を弟の吉見頼興(よしみよりおき:1460~1532)に譲っていることから、計画的犯行だったことが窺えます。
 酒宴の場で殺人事件を起こした吉見信頼は、その場で内藤弘矩(ないとうひろのり:1446~1495)に成敗されました。
 一見すると、主君の前で私怨を晴らそうとした不届き者の話に見えます。しかし調べていくと不思議なことが分かります。
 まず、凶器の刀は鵜噬(うくい)と呼ばれる吉見氏に伝わる家宝の短刀であり、事件直後に大内家に没収されたものの、その後に父・吉見成頼(よしみしげより)に返還されています。事件に使われた凶器が犯人の家に返還されるとは不可解です。
 また、大内政弘は事件の後に吉見氏討伐を開始したのですが、その討伐は突然中止となり、吉見家は(信頼が殺されただけで済んで)それ以上の罰は受けませんでした。これまた不思議です。
 以上のことから、実は陶弘護刺殺事件は大内政弘の指示によるものだったとの説が囁かれています。応仁の乱のさなかに起こった大内道頓の反乱は政弘にとって窮地でしたし、それを鎮圧してくれた陶弘護は政弘にとって大恩人だったはずなのですが、当主不在の間に周防を統治していた陶弘護は大内家以上に影響力を持ってしまい、それを恐れた当主政弘が粛清したというわけです。あり得る気もします。
 その場合、内藤弘矩による吉見信頼殺害は口封じ目的であったと考えられます。実朝殺しの公暁やケネディ殺しのオズワルドなど、実行犯を口封じする二重暗殺事件の例は多数あり、これもその一例かもしれまえん。
 事件以降、大内家中では内藤弘矩が権勢を誇り、陶弘護の子らはそれを苦々しく見つめていました。やがて、内藤家と陶家で更なるトラブルが持ち上がるのですが、それは戦国時代の章で改めてお話しすることとします。

内藤家と陶家のトラブル。次に取り上げるときにはこのページのことをみんな忘れてそうです。

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