日本人の物語00485【平安末期】水島/福隆寺縄手/室山の戦い
平家を追って西下していた木曽義仲は、寿永2(1183)年閏10月1日、備中水島(岡山県倉敷市)で平知盛・重衡と戦闘となり、敗北しました。山岳戦では無敵を誇る義仲も海上では弱いようです。
このとき、義仲軍の中には倶利伽羅峠の戦いで捕虜となっていた平家方の妹尾兼康という武将がいました。兼康は
「命を救っていただいたお礼に、平家と戦いたい」
と述べ、義仲らはこれを信用して釈放しました。
ところが妹尾兼康は最初から義仲を騙すつもりだったようで、釈放直後に備前国福隆寺縄手(岡山県岡山市)に軍勢2千人をもって立て籠もり、義仲軍と対決する姿勢を示したのです。閏10月12日、妹尾兼康はさんざんに戦った後、今井兼平の軍勢に突入して討ち死にしました。義仲は裏切られたことを責めるでもなく、むしろ兼康の武勇を惜しんだといいます。これを福隆寺縄手の戦いといいます。
義仲は態勢を立て直そうとしますが、このとき、
「京で行家が義仲の悪口を言っている」
という情報が入ったため、急ぎ京へ戻ることとしました。行家は頼朝と喧嘩別れをして義仲勢に加わったわけですが、どうも「源氏の中で自分が上に立ちたい」という権力欲旺盛な人物だったようで、義仲としてもこれを持て余していたようです。
前述のとおり義仲は粗野な振る舞いで公家を敵に回していましたが、一方の行家は弁舌が立ち、公家に取り入るのが上手かったようです。行家が上手く義仲を悪者にして、自らが源氏のトップに立とうとしているのを、義仲は阻止するべく慌てて都に戻ります。
閏10月19日、「義仲が法皇や公卿を連れて北陸へ向かおうとしている」との噂が流れ始めました。義仲は「この風聞は行家が広めた嘘である」と言って火消しに努めました。二人の仲はますます険悪になります。
11月8日、行家は遂に喧嘩別れをして、「平家追討のため」と称して京を出発していきました。しかし従う者は僅か270騎であったといいます。270騎では平家追討は不可能でしょう。
事実、11月29日、播磨国室山(兵庫県たつの市)において、行家は平知盛・平重衡率いる平家軍を攻撃しましたが、平家軍に完全に包囲されてしまい、惨敗を喫することとなりました。
