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日本人の物語00517【平安末期】壇ノ浦の戦い 知盛の最期

 平家方の総大将・知盛は、勝敗を完全に見届けてから死のうと決意していました。
 一門が次々と入水していくのを確認してから、知盛は
「見るべき程の事は見つ。今は自害せん」
と述べ、入水しました。
 知盛が恐れていたのは、身体がうまく沈まずに浮かび上がり、源氏方の捕虜となることでした。そこで入水に当たって知盛は、鎧を二枚着た上に重い碇(いかり)を担いで飛び込みました。歌舞伎『義経千本桜』ではこの場面を「碇知盛(いかりとももり)」と呼び、前半のクライマックスシーンとして描写しています。また、壇ノ浦に設置された平知盛像も、碇を担いだ姿です。
 その後、知盛の遺体は門司(福岡県北九州市)に漂着し、村人たちの手で壇ノ浦を見渡せる筆立山(ふでたてやま)に葬られました。現在は甲宗八幡宮の社殿近くにその墓が鎮座されています。
 宗盛が驕慢な上に智謀にも武勇にも劣った人物であるのに対し、知盛は決して驕らず、周囲の評判もよかったようです。清盛は長男・重盛よりも三男・宗盛よりも四男・知盛をかわいがったらしく、九条兼実は日記の中で知盛を
「入道相国(清盛)最愛の息子」
と呼んでいます。
 さて、平知盛の死をもって源平の合戦は全て終了しました。治承3(1179)年の政変で最高権力を手にしたはずの平家は、僅か6年間で滅亡したわけです。
 その後しばらくして、壇ノ浦近くにあった阿弥陀寺で安徳天皇と平家一門の菩提を弔うこととなり、建礼門院ゆかりの尼が入寺しました。
 この阿弥陀寺は、明治の神仏分離によって神社に改修され、「天皇社」と改称されました。さらに明治8(1875)年には「赤間宮」、昭和15(1940)年には「赤間神宮」と改称され、現在も安徳天皇と平家一門を祀っています。
 今日、日本各地において平家の落人伝説が伝承されています。平家方に与した武士や庶民たちが、元々住んでいた村を追われ、山の奥深くや離れ島、孤島などに転居して里を築いたというのです。中には後世に創作された伝説もあるようですが、こうした平家の末裔は全国に散らばっており、昭和50(1975)年には子孫たちが「全国平家会」を結成しました。全国平家会は今も定期的に追悼祭を開催するなど、子孫同士の交流を深めています。

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