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日本人の物語00865【建武期】福山合戦

 延元元/建武3(1336)年4月。新田軍は船坂峠を越えて、備中福山城(岡山県総社市)に迫っていました。備中福山城の城主は庄兼祐(しょうかねすけ)といって、足利方の武将でした。
 新田軍に従軍する大井田氏経(おおいだうじつね)は庄兼祐を追い出し、1500の兵力でこの備中福山城に立て籠もり、足利軍の上洛を阻止すべく準備しました。
 新田軍が中国地方の敵を掃討して基盤を固めようとしていたまさにその頃、九州の尊氏のもとに赤松円心の三男・則祐がやって来ました。則祐といえば、護良親王の最側近として忠誠を尽くした人物なので、その護良親王を殺害した足利家を憎んでいそうなものですが、父・円心が足利方についたため足利方となったのでしょう。ちなみに則祐は父・円心の死後南朝方に寝返り、その後また北朝に戻ってくることとなります。
 則祐は、
「京からやって来た新田軍は現在中国で苦戦しています。ここで将軍が大軍勢で九州から攻め上れば、きっとひとたまりもありません。一方、将軍の九州出発が遅れてしまい、万一にも白旗城が陥落するようなことになれば、一挙に敵方が有利になるでしょう」
と述べ、尊氏に早期の上洛を求めました。
 これを聞いた尊氏は直ちに上洛を決めました。ただし、九州をそのまま放置するわけにもいかず、家臣の一色範氏・仁木義長を残していくのですが、これが後の室町幕府の出先機関である「九州探題」の始まりとなります。詳細は後述します。
 4月26日。尊氏は博多を出発し、京を目指しました。そこに立ちはだかったのが大井田氏経の立て籠もる備中福山城です。
 5月15日夕刻、足利直義率いる20万人が、僅か1500人の大井田軍に向けて攻めかかりました。大井田軍は千騎で討って出て、狭い山中で足利軍を翻弄しました。
 この籠城戦は4日間に渡って続き、足利軍は2万人もの死傷者を出したといいますから、大井田氏経は余程の戦上手だったのでしょう。しかし、大井田は福山合戦の名将として語り継がれながらもその生涯については不明な点が多く、生没年すら明らかではありません。
 結局5月18日に備中福山城は落城しました。ただし、城主の大井田は400人ほどで足利勢の囲みを突破し、20回以上もの追撃戦を交わしながら、新田軍の本隊がいる備前三石城(岡山県備前市)へと逃れていきました。その後も大井田はたびたび足利軍を苦しめることとなります。
 福山合戦に辛くも勝利した足利軍は、さらに瀬戸内海を東上し、兵庫(神戸市兵庫区)からの上陸を試みます。この情報を得た新田義貞・脇屋義助兄弟は、慌てて備前から兵庫へと引き返すのでした。

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