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日本人の物語00786【鎌倉末期】東寺の戦い

 大高重成と河野通盛の一騎打ちが始まるかと思いきや、そこに河野通盛の養子・通遠(みちとお:?~1333)という数え16歳の少年が、父より先に大高に組みかかっていきました。
 しかし若年の通遠は、百戦錬磨の大高の敵ではありません。通遠はあっという間に両膝を斬り落とされ、遠くへ飛ばされてしまいました。
 最愛の養子を目の前で殺された河野通盛は、大高を討とうと駆け寄ります。しかし河野の家臣たちが主君を守ろうと先んじて足利軍に斬り込んでいきます。
 こうして足利軍と河野軍の全面衝突が始まりました。東へ西へ、一進一退の攻防が続きますが、やがて河野軍が足利軍に押されて、六波羅へと退却して行きました。
 さて、次は東寺の赤松軍との戦いに目を転じてみましょう。東寺の六波羅軍を攻めようと赤松円心らが3千騎で取り囲みますが、東寺は頑丈な塀と水を引き入れた堀とで要塞化しており、簡単に攻め込めそうにありません。橋も外されています。
 ここで活躍したのが赤松軍の妻鹿長宗(めがながむね)です。妻鹿長宗は堀の水の中に弓を差し込んでみて、水深を測った上でざぶんと飛び込みました。
 妻鹿長宗が堀の中に立っているのを見て、
「どうやら浅いぞ」
と思った武部七郎(たけべしちろう)は同様に飛び込びました。ところが武部は妻鹿に比べて背が低かったので水が兜の上まで来てしまい、溺れそうになりました。妻鹿が
「俺の肩につかまれ」
と手を貸して武部を向こう岸まで渡してあげました。武部がバカっぽいのに対して、妻鹿は思いやりのある好人物ですね。
 次に妻鹿が
「塀を引き破ってみせよう」
と塀の柱に手をかけてえいやえいやと引っ張ると、なんと塀は倒れて堀が平地のように埋まってしまいました。驚くべき怪力です。
 六波羅軍は東寺内から次々に矢を射かけました。妻鹿は高櫓の下まで駆け、そこに祀られていた仁王像のそばから敵をぐっと睨みつけました。その様相について、太平記は
「どちらが仁王でどちらが妻鹿か分からないくらい迫力があった」
となかなか面白い筆致で伝えています。
 妻鹿の活躍もあって六波羅軍は東寺の戦いにも敗北し、六波羅に逃げ帰りました。また太平記に詳しいエピソードはありませんが、竹田・伏見の戦いもまた千種忠顕が勝利し、六波羅軍は敗走したといいます。
 足利・赤松・千種の兵たちが六波羅探題を取り囲み、いよいよ六波羅探題滅亡のときが近づいています。

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