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日本人の物語01167【南北朝末期】応安大法

土地制度の歴史ってすごく難しくて、高校時代はいまいち理解していませんでした。こうして為政者の人物像とともに学べれば分かりやすかったんですがね・・・。

 正平23/応安元(1368)年3月28日。上杉憲顕が京を発ち、鎌倉へと戻っていきました。武蔵平一揆の乱の鎮圧に向けていよいよ動き出したということでしょう。
 さて、細川頼之政権は6月17日に非常に大きな影響を与える法令を発出しました。「応安大法」又は「応安の半済令」と呼ばれるものです。
 この法令の内容について説明するためには、義詮が晩年の正平22/貞治6(1367)年に発出した「寺社本所保護法」から説明しなければなりません。この法令は
「山城国にある寺社本所領で、武士の恩賞地や将軍直轄領になってしまい、寺社本所への返還命令が出ていながら返還が実現していない所領については、侍所が責任をもって寺社本所に返還せよ」
という内容でした。つまり、守護やその配下にある新興武士が寺社から実力で荘園を奪い取る事件が全国あちこちで発生していたところ、その土地収奪に歯止めをかけ、収奪してしまった土地は元の持ち主に返せという趣旨のものです。
 南北朝の動乱の中で、武士は戦費調達のため好き放題に公家や寺社の荘園を収奪してきました。それを室町幕府は半ば黙認し、正平7/観応3(1352)年7月24日には史上初の半済令を出して収奪を合法化していたわけですが(01060回参照)、徐々に戦乱が落ち着いてきたことから、収奪をやめるよう武士たちに統制をかけ始めたわけです。
 とはいえ、山城国は元々守護を設置していない国だからこそ、幕府はこのような法令を発出できたのです。守護がいる国については、幕府も守護の顔色を窺わなければならず、なかなか強い規制をかけられずにいました。
 ところが頼之が出した応安大法は、全国の守護に対して
「これまで収奪した土地のうち、半分は寺社に返してやれ」
というものでした。おまけに頼之は
「これは前将軍(義詮)の遺言である」
と称して厳命を与え、さらにはこの法令が無視されるおそれを考慮して
「来月までにこの法令の実施状況を報告せよ」
とまで命じたのです。守護たちは不満たらたらだったと思いますが、この法令を原因とした大きな反乱は起こっていません。これまで揺らいでいた幕府の権威が徐々に回復している様子が見てとれます。
 全国の寺社はこの法令を歓迎し、法令が出されてから1ヶ月ほどの間に、守護に収奪された所領の返還を求める訴訟を次々と起こしています。
 頼之率いる幕府は守護に強い統制を加えることで土地をめぐる犯罪を抑止しているわけで、戦乱収束に向けて大きな布石を打ったといえるでしょう。

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