日本人の物語01571【室町/西国/応仁の乱】後花園法皇崩御
七重の塔、もし残っていたら京都のシンボルになっていたでしょうね。残念です。
相国寺の戦いで多くの屋敷や寺社が灰燼に帰したことから、それ以降、両軍とも京近辺での市街戦は自粛していました。しかし全くなくなったわけではなく、文明2(1470)年7月19日には大内政弘の軍が勧修寺(京都市山科区)を焼き討ちし、東軍方の逸見弾正(へみだんじょう:?~1470)を自害に追い込むなどしています。
10月4日には、相国寺の中でせっかく焼け残っていた七重塔が落雷で炎上しました。相国寺七重塔は4代将軍義持の時代に落雷で焼失したため再建されましたが、再び失われたのです。避雷針が発明されていないこの時代、高い建物は当然こうなる運命でしょう。しかし、室町幕府の権威を象徴するこの塔が失われたことは、幕府高官たちを大いに落胆させたと思われます。
そして幕府にとって更なる悲劇が起こりました。12月26日、後花園法皇が中風(脳梗塞)により危篤となり、翌27日に崩御したのです。最後まで内裏に戻ることができず、将軍御所での崩御となりました。
法皇の葬儀は、翌文明3(1471)年1月3日に聖寿寺で行われました。将軍義政は勝元から
「大乱の最中であり、外を歩くことは不用心でよくない」
と諫められましたが、それを振り切って葬儀に参列しました。
この時代、上皇(法皇)が崩御すれば天皇が皇太子に譲位して新たに上皇となるのが慣例でした。後土御門天皇が、可能な限り早期に譲位したいと考えるのは当然です。しかし戦時下にあって、譲位の段取りを整えるのは容易ではありません。
各国の荘園からの年貢上納も滞り、4月になると公家の中に餓死者まで現れるようになりました。これを嘆いた後土御門天皇は遁世を口にするようになります。しかし朝廷・幕府とも財政難の中、譲位は許されません。
幕府財政を握っているのは政所執事を務める伊勢家です。財政悪化は決して伊勢家のせいではありませんが、私腹を肥やしているとの噂で悪名高い伊勢貞親は、名目上は隠居したことになっていながら、実際には伊勢家の当主として実権を握り続けていました。財政破綻の責任を負うべき伊勢貞親には、この頃批判が集中していたと思われます。
4月28日。伊勢貞親に突如として
「万里小路春房(までのこうじはるふさ:1449~1509)とともに蜂起を企てた」
との疑いがかかりました。真偽は定かではありませんが、貞親は春房の妹の嫁ぎ先である朽木谷(滋賀県高島市)の朽木貞綱(くつきさだつな:?~1485)の元に逃れて出家し、さらに若狭へと逃れました。今度こそ完全引退です。(その2年後に死去します。)
翌29日に嫡男の伊勢貞宗が政所執事に就任しましたが、貞親ほどの存在感を発揮することはありませんでした。
朽木谷には去年行ってきました。またどこかの段階で写真をアップすることになると思います。
