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日本人の物語00704【鎌倉後期】安達泰盛の弘安徳政

 弘安7(1284)年4月4日に時宗が死去し、その日のうちに時宗の嫡子・貞時(さだとき:1272~1311)が家督を相続し、第9代執権に就任しました。僅か12歳での就任です。
 貞時自身に政務が執れるわけもなく、当然これを支える人物が必要です。貞時の代わりに主として政務を執ったのは、貞時の外祖父に当たる有力御家人・安達泰盛でした。
 この頃幕府が抱えていた問題は、御家人の生活破綻でした。そもそも農作物の収穫は増えていないのに人口は増える一方ですから、誰かしらを犠牲にして栄えるほかありません。鎌倉幕府は当初、有力御家人を次々と葬ることによって彼らの所領を没収し、それを残った御家人に分け与えることで繁栄して来ました。しかし、徐々に葬る対象がいなくなり、恩賞として譲与できる土地がなくなってきたのです。
 さらに、元寇で活躍した御家人たちに与える所領がないことも大きな課題でした。元寇は敵を撃退しただけであって、新たな土地を奪ったわけではありません。御家人は新たな恩賞地を要求してくるものの、幕府から与えられるものは何もなく、泰盛たちは頭を抱えていました。
 そうした中、泰盛率いる幕府は弘安7(1284)年5月から翌年にかけて、新たな法令を矢継ぎ早に発令します。その内容はおよそ次のとおりです。
・行事・服装を簡素化し、華美を慎むこと。
・公式の行事を簡素化し財政支出を減らすこと。
・訴訟制度を簡素化し一回で決着させること。その代わり、評議人が訴訟当事者の肩を持つことがないよう賄賂を禁止すること。
・貧困にあえぐ御家人が所領を手放さないよう、悪質な売買を禁止すること。
・関東の田畑を改めて調査し年貢割合を再設定すること。
 つまり泰盛は、新たに犠牲となる御家人を選んで所領を没収するのではなく、幕府全体の支出を減らすことで歳入と歳出のバランスを改善し、貧困を生まない社会を作ろうとしたのです。至極まっとうな政策であると考えられます。
 しかし、この方法は御家人の支出を減らすものであって収入を増やすものではなく、所領を欲しがる御家人の不満を根本から断ち切れるものではありませんでした。泰盛の改革は後世に「弘安徳政」と評価されながらも同時代の人々には評価されず、御家人の不満は募るばかりだったのです。

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