日本人の物語01110【南北朝後期】仁木討伐 将軍幽閉
2代将軍義詮はどうも頼りない人物というイメージがありますね。偉大な初代尊氏と3代義満に挟まれ、いまいち存在感がありません。
有力守護たちが仁木義長を討伐しようと議論した直後の正平15/延文5(1360)年7月3日、
「楠木正儀と和田正武が河内を出て誉田城(大阪府羽曳野市)を攻撃しようとしている」
との情報が入りました。前回、南朝への攻撃を不十分な形で終わらせたことが裏目に出たのです。ちなみに誉田城とは応神天皇陵のことで、そんな場所を城として戦に使うとは罰当たりな話ですが、中世ではよくあることだったようです。
義詮はひどく慌てましたが、自分の判断ミスが原因ですから、誰に命令しても乗り気になってはくれないだろうと悲嘆に暮れていました。しかし7月6日、南朝方の状況を聞いた畠山国清、細川清氏、土岐頼康、六角氏頼、芳賀高名といった名だたる大名たちが、義詮からの命令も待たずして我先にと出撃していきました。
京から大軍がやって来たと聞いて、南朝方は
「とても持ちこたえられまい」
と言って、すぐに誉田城を引き払って金剛山(大阪府千早赤阪村)へと戻りました。
出陣の目的は失われたかに見えました。しかし幕府方の一同はそのまま仁木討伐の準備を始めました。楠木・和田と戦うために出てきたと見せかけて、出陣の目的は最初から仁木討伐にあったのです。
京で留守番をしていた仁木義長は、これを知って大いに怒りました。
「私は討たれるべき罪など犯してはいない。国清・清氏らは全くけしからん。このことを急いで将軍に申し上げなければ」
と言って、急いで義詮のところに参上して
「国清と清氏が私を討つと言って、天王寺から二手になって上洛してくるそうです。これはきっと天下を転覆させようと企んでいるに違いありません。ご油断なさいますな」
と報告しました。義詮は
「何かの間違いではないか。もし実際に反逆の企てがあるならば、私がそなたと一緒になって戦えばよい」
と答えたといいますから、義詮は義長をしっかり信頼していたのでしょう。
将軍の答えに満足した義長は、上洛してくる敵を迎え討つべく準備します。甥にして養子の仁木頼夏(にっきよりなつ)に2千騎をつけて四条大宮に、弟の仁木頼勝(にっきよりかつ)に千騎をつけて東寺に、それぞれ陣を布かせます。さらに義長は、
「将軍殿がもし敵方についてしまったら、多くの兵が裏切るだろう」
と考え、義詮の館に誰も訪ねていかないよう、四方の門を警護しました。つまり将軍を幽閉してしまったことになります。
ちなみに仁木頼夏は細川清氏の実子でありながら仁木に養子入りした子であり、実父と養父の争いに巻き込まれた格好になります。哀れなものです。
