日本人の物語00467【平安末期】富士川の戦い 水鳥の羽音*
治承4(1180)年10月16日に平維盛率いる平家軍が富士川に布陣し、その後、大庭景親たち在地豪族が平家に味方しようと合流していきました。同様に伊東祐親・祐清父子も合流を試みようと駿河国を西上していきましたが、その途上の10月19日、頼朝軍に捕らえられてしまいます。2人はそのまま捕虜となり、富士川の戦いには参加できませんでした。
翌10月20日、両軍が富士川を挟んで、いよいよ戦闘が始まろうとしていました。
夜になると、武田信義の部隊が平家に奇襲をかけようとして、富士川の浅瀬にそっと馬を乗り入れました。すると、水鳥が反応して大群が一斉に飛び立っていきました。まるで多数の軍勢がわっと奇襲をかけてきたかのような羽音です。
これに驚いた平家方は大混乱に陥りました。兵たちは弓矢や甲冑を身に着けるのも忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがって逃げる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者(漫画みたいですね)がおり、哀れにも逃げようとする馬に踏み潰され死傷者が多数出たといいます。
頼朝は、人気のなくなった敵陣に乗り込み「八幡大菩薩のおかげだ」と喜びました。源氏方は何一つ戦闘をしていないのに、平家方には多数の死傷者が出たわけですから、まさに大勝利でした。
と、これが『平家物語』や『吾妻鏡』が伝える富士川の戦いなのですが、さすがにこれが史実とは思えません。水鳥の羽音は平家の軟弱ぶりを強調するための後世の創作でしょう。
史実として、富士川に布陣した平家軍が戦わずして逃亡したということは間違いないようです。おそらく、士気の劣る平家軍から脱走する者が次々と出てしまい、勝ち目がなくなったので撤退するほかなかったのでしょう。「富士川の戦い」とは言いますが、実際には戦闘らしい戦闘はなかったのではないでしょうか。
このとき、平家方についていた大庭景親は、逃亡中に頼朝軍に見つかってしまい、捕虜となりました。頼朝にとっては、石橋山の大敗を喫した因縁の相手です。大庭景親は10月26日に処刑されました。
さて、同じく捕虜となっていた伊東祐親・祐清父子については、なぜか処刑されないまま1年以上が経過しました。養和2(1182)年2月14日に頼朝は恩赦を出して二人を助命しようとしますが、祐親は「かつての行いを恥じる」として潔く自害して果てました。頼朝の初めての子(千鶴丸)を殺害したことを指しているのでしょう。現在、伊東市大原物見塚公園には、伊東祐親の騎馬姿の銅像が設置され、在りし日の面影を偲ばせています。
一方、祐親の子の祐清は、元々から頼朝に友好的な人物でした。祐親が頼朝を殺そうとしたとき、これを北条時政方に逃がしたのも祐清でした。頼朝としては祐清を助けたかったでしょうが、祐清本人が処刑を強く望んだためやむなく処刑となりました。実に武士らしい最期です。

