日本人の物語00732【鎌倉後期】嘉暦の騒動*
正中3(1326)年3月13日、高時は病のため、執権・得宗の両方を辞して出家することとしました。政治に関心がない高時は、さっさと隠居したかったのでしょう。
さて、後継得宗をめぐる対立が起こりました。生後3ヶ月である高時の子・邦時(くにとき:1325~1333)を推す者と、高時の弟・泰家(やすいえ:?~1335?)を推す者とがいたのです。
前者の中心人物は、内管領・長崎高資でした。長崎としては、自らが全ての政務を担当している以上、得宗が何ら分別のつかない赤子であってもよかったのでしょう。
後者の中心人物は、有力御家人の安達時顕でした。長崎の権力を削ぎ落したいと考える安達時顕としては、分別のついた泰家が得宗になってくれた方が長崎家に対抗しやすいと考えたのでしょう。
この政争は結局長崎が勝利し、得宗は邦時が継ぐこととなりました。(といっても、まだ幼いので継ぐことが内定したという言い方が正しいでしょう。正式に得宗を継がせる前に幕府が滅亡してしまうので、歴史学上は最後の得宗は高時であると扱われています。)
一方、執権職はというと、長崎高資にしつこく懇願され、北条一族の金沢貞顕が務めることになりました。元々、貞顕は高時と同時に出家することを予定していたのですが、しつこく慰留されてやむなく3月16日に15代執権に就任することとなったのです。
ところが、泰家や安達時顕をはじめ、泰家派の多くが長崎に抗議して出家してしまいました。鎌倉中の御家人が二派に分裂して争う状況となり、執権となった貞顕は暗殺されるのを恐れ、僅か10日で執権を辞職して出家しました。この事件を「嘉暦の騒動」といいます。
「嘉暦」と改元されるのは正中3(1326)年4月26日のことなので、本来は「正中の騒動」と呼ぶべきなのでしょうが、慣例として「嘉暦の騒動」という呼び名で知られています。
長崎は貞顕の出家を何度も慰留していたにもかかわらず、10日後には態度を変え、簡単にこれを許しています。おそらく得宗を邦時に継がせることが決まったので、もう執権は誰になっても良いと思ったのでしょう。
貞顕はよく言えば慎重、悪く言えば臆病な人物だったらしく、子の貞将(さだゆき:1302~1333)への手紙の中で
「この手紙は見られるとまずいので、火中に入れてほしい」
と書いている部分があるのですが、そこにはさほどまずいことは書かれていません。子の貞将も何がまずいのか分からず、その手紙を後世に残しているわけで、貞顕の慎重な性格がよく分かります。
貞顕の引退に伴い、4月24日付けで16代執権に赤橋守時(あかはしもりとき:1295~1333)が就任しました。これが最後の執権となります。(金沢貞将が17代執権に就任したという説があるのですが、後述します。)

