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日本人の物語00231【奈良】和気王の変と氷上志計志麻呂の変

 藤原仲麻呂がいなくなった政府では、弓削道鏡の存在感が日に日に増していきました。そして、僧侶の身でありながら政務を担う道鏡を、皇族たちや藤原一族たちは苦々しい思いで見つめていました。
 天平神護元(765)年3月5日。加墾禁止令が発布されました。有力寺院などによる大量の開墾を制限するもので、墾田永年私財法による弊害を軽減しようというものでした。政府の土地政策はまるで迷走しています。
 同年8月1日。藤原仲麻呂の乱から一年が経ったころ、またもや時ならぬ謀反計画が発覚します。今度は和気王(わけのおう:舎人親王の孫:?~765)という人物が、皇位を狙って謀反を起こそうとしたというのです。和気王は淳仁天皇の甥に当たりますから、淳仁天皇の失脚や道鏡の昇進を快く思わなかったのでしょう。しかし、決起の前に計画が露見したため失敗し、和気王は伊豆国に流罪となりました。そして配流の途中で絞殺されます。
 和気王は、道鏡が重用される現状に不満を持って謀反を企てたのでしょう。しかし、和気王の謀反など意に介さず、称徳天皇はさらに道鏡を引き上げていきます。
 閏10月2日。弓削道鏡は太政大臣禅師となりました。これは太政大臣のことなのですが、僧が太政大臣になるのは異例のことなので、「太政大臣禅師」という役職名にされたのです。
 そして天平神護2(766)年10月20日。新人事が発表されました。
 弓削道鏡は「法王」という新設された役職に就きました。一体どんな役職なのか分かりませんが、およそ全ての権限を握ることになるのでしょう。
 左大臣には藤原永手(ふじわらのながて:714~771)、右大臣には吉備真備が就きました。藤原永手は、藤原房前の次男です。
 それにしても下級役人の出である吉備真備が右大臣にまで上り詰めるとは、その後の時代に比べると実力主義の時代だったのですね。
 道鏡政権への不満は止まりません。神護景雲3(769)年5月。塩焼王の未亡人・不破内親王と遺児・氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)が謀反を計画しました。称徳天皇を呪詛して、志計志麻呂を皇位につけようとするものです。
 これが露見して、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と改名させられ都を追放されました。「台所で働く下女」くらいの意味でしょうか。一方、氷上志計志麻呂は土佐国に流罪となりました。
 それにしても、称徳天皇は罪人を改名させるのが大好きなようですね。陰険な性格がにじみ出ています。
 なお、不破内親王は宝亀3(772)年に無罪であったとして都に呼び戻されています。

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