見出し画像

日本人の物語01245【室町/義満期】前近代最長の元号「応永」

歴代元号を長さでみると、1位が昭和(64年)、2位が明治(45年)、3位が応永(35年)です。

 この頃、幕府と旧南朝(大覚寺統)との関係は悪化していたようです。南北朝合一の知らせを受けて、明徳4(1393)年10月に九州南朝の中心人物だった菊池武朝・阿蘇惟武らが幕府に帰順したのですが、良成親王はこの和睦に従わず、引き続き南朝元号を用いて活動を続けました。とはいえ、矢部(福岡県八女市)に立て籠もる小規模な政権に過ぎないため、死去の年や場所すら明らかになっていません。
 明徳5(1394)年2月6日には後亀山上皇と義満が天龍寺で対面して相談した結果、2月23日に後亀山上皇に「太政天皇」の称号を与えるとの決定がなされました。通常は天皇を経験した皇族は「太上天皇」になるのが普通なので、これは誤記とも考えられますが、あえて漢字を変更して後亀山上皇を普通の上皇とは異なる扱いにしたとも考えられ、つまり「かつて天皇であったことを否定したもの」と捉える史学者もいます。そうだとしたら、当時ひどく物議をかもしたことでしょう。
 朝廷をも牛耳る権力を手にした義満は、元号までもコントロールし始めます。明徳5(1394)年7月1日、新しい元号を検討するに当たって儒学者の東坊城秀長(ひがしぼうじょうひでなが:1338~1411)が義満を訪れて元号案を見せたところ、義満は
「明の『洪武』という元号は20年以上も続いていて縁起が良い。洪の字を入れてはどうか」
と提案しました。これを承った秀長は内心反対であったものの、その日のうちに「洪徳・洪業・洪化」の三案を義満に提出したところ、義満は喜んで「洪徳」を選んだといいます。
 ところが夕刻、秀長が左大臣・一条経嗣に事の次第を報告したところ、経嗣は異国の年号を真似ることに反対しました。経嗣の日記に詳細なやり取りが記されています。
経嗣「一体どうしてまた、そんな奇妙な年号を推挙されたのか」
秀長「室町殿が『洪』の字に固執されるのは、ただ異国で今実施されている元号だからです。明の文化を学ぶべきだと五山の僧あたりが入れ知恵したのでしょう。厳命であったためやむなく具申しました」
経嗣「世も末だ。権勢に媚びるとはこのことだ。我が国がなぜ異国のやり方を取り入れねばならぬのか。それに『洪』の字は『洪水』に通じるため不吉。水難を招くおそれがあるぞ」
 左大臣からの反対を受けた義満は諦めて「洪徳」を撤回し、「応永」でいくことになりました。義満は珍しく公家の反対を受けて自説を撤回したのです。
 しかし義満の意向を退けた代償は高くつきました。その後、朝廷が何度改元を申し出ても義満は全て拒絶し、その態度は義満の子・義持の代まで続きました。
 結果、応永は35年も続くこととなり、「一世一元の制」ができる明治以降を除くと歴代最長の元号となったのです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集