日本人の物語00553【鎌倉初期】頼朝と法皇の会見
奥州の平定を終え、全ての敵を掃討し終えた頼朝は、満を持して文治6(1190)年11月7日、入京しました。平家打倒の決起以来、たびたび朝廷から上洛を求められていたものの、ようやく実現したというわけです。
頼朝はこの上洛に前後して、朝廷から清盛の居館があった六波羅の地を与えられていました。以後、この六波羅こそが鎌倉幕府の京における本拠地となり、のちに「六波羅探題」という幕府直轄の役所も設置されることとなります。
11月9日。頼朝は九条兼実と会見し、連携を確認し合いました。九条兼実はかねてよりアンチ平家方の公家として知られており、頼朝が後白河法皇に圧力をかけて兼実を内覧に就任させた経緯があります。
同日、頼朝はいよいよ後白河法皇と対面を果たします。どんなやり取りが行われたかは記録されていませんが、頼朝は40日間の滞在中に8回も法皇と対面しており、朝廷と幕府の権限関係について丁々発止の交渉が行われたと考えられます。
多くの作家がこのときのやり取りについて、こんな想像をしています。法皇は頼朝に
「このまま京に留まって、京の治安を守ってくれないか」
と依頼したというのです。法皇としては、手元に置いておいた方が何かと武士集団をコントロールしやすいと考えるはずだからです。
しかし頼朝はそれを巧妙に辞退し、あくまで関東に朝廷からの独立性の高い政権を樹立することを目指したというわけです。
事実、頼朝はこのとき、権大納言・右近衛大将に任じられますが、僅か3ヶ月で辞任しています。京で出世栄達を望むのではなく、あくまで鎌倉に新政権を立ち上げることを主張して法皇と決別宣言をしたものと評価できるでしょう。
頼朝は12月14日には京を去り、29日に鎌倉に戻ったと記録されています。
このように、「頼朝は清盛と異なりあくまで関東に政権を置くことを志向した」と述べてきましたが、一方で「頼朝は独立政権を置くことまで考えていたわけではない」との説も有力視されています。鎌倉幕府が徐々に独立色を強めて行ったことから逆算した後付けの論理だというのです。
確かに、右近衛大将を3ヶ月で辞任したことについては、当時「箔をつけるために朝廷の役職をいただき、短期間で辞任する」ということはよくあることでしたので(清盛の太政大臣就任もそうでした)、一概に「決別宣言」と評価することはできないようにも思われます。
