日本人の物語00357【平安中期】69代後朱雀天皇
長元7(1034)年7月18日、敦良親王と禎子内親王の間に尊仁親王(たかひとしんのう:後の後三条天皇:1034~1073)が誕生しました。この尊仁親王こそが、摂関政治に終止符を打つ人物であるのみならず、古代に終止符を打って中世への扉を開く人物です。
敦良親王とは一条天皇と藤原彰子との間の子です。一方、禎子内親王とは三条天皇と藤原妍子の間の子です。つまり尊仁親王は藤原氏の血を引いてはいますが、外祖父は三条天皇ということになります。外祖父が藤原氏ではない皇位継承者は久しぶりですね。
長元9(1036)年4月17日。後一条天皇が崩御し、敦良親王が即位しました。第69代後朱雀天皇です。妃だった禎子内親王は皇后となりました。
長暦元(1037)年3月1日。頼通の養女・藤原嫄子(ふじわらのもとこ:1016~1039)が後朱雀天皇の中宮となりました。
藤原嫄子は敦康親王の長女です。敦康親王といえば藤原定子の産んだ子で、彰子が引き取って育てていた子ですね。彰子・定子は政敵だったはずですが、定子の忘れ形見を彰子が引き取って育て、さらには彰子は
「敦康を即位させてほしい」
と父・道長に直訴したほどですから(00344回参照)、余程可愛がっていたのでしょう。
その敦康親王は、長女嫄子をもうけた2年後に病死したため、頼通夫妻が嫄子を引き取っていました。その嫄子が、彰子の子である後朱雀天皇に嫁いだわけです。もうややこしくて、何が何だか分からないですよね。
彰子としては可愛がっていた敦康親王の早世は悲しかったでしょうが、その娘が自らの息子と結婚したわけですから、嬉しさもひとしおだったでしょう。あれほど対立していた定子派と彰子派がこうして一つになったわけです。
この嫄子が男子を産み立太子できれば、頼通としては養女の産んだ子が天皇になるので外祖父となれるわけですが、残念ながら嫄子は女子しか産みませんでした。
ちなみに、嫄子が産んだ女子というのが、祐子内親王(すけこないしんのう:1038~1105)です。祐子内親王は生涯独身を通しましたが、歌合を盛んに催すなどして一大サロンを形成し、文学史に大いに影響を与えています。
祐子内親王に仕えた官女の中で特に有名なのは、祐子内親王家紀伊(すけこないしんのうけきい)でしょう。百人一首に入選している
「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ」
は非常に有名です。
