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日本人の物語01376【室町/義教期】永享の乱 開戦

やっと始まりました。「鎌倉公方持氏VS関東管領憲実」の戦いから始まり、遂に幕府と鎌倉府の直接対決です。

 永享10(1438)年8月16日。この日は鶴岡八幡宮で放生会(ほうじょうえ:捕獲した鳥獣を野に放す宗教儀式)が催されたのですが、数日前から
「持氏は放生会にかこつけて憲実を呼び出し、行事が終わったら討つつもりらしい」
との噂が流れました。噂を知った憲実は嘆いて自害を試みましたが、家臣に止められました。
 結局、憲実は放生会には参加せずに扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも:1416~1467)らを伴って鎌倉を脱出し、上野国白井城(群馬県渋川市)へと退去しました。これを謀反と捉えた持氏は、側近の一色直兼を派遣して追討に向かわせました。いよいよ「永享の乱」が始まります。
 8月21日。持氏方の大森憲頼(おおもりのりより)が上杉方の河村城(神奈川県山北町)を攻略しました。
 戦乱勃発を知った幕府はすぐに山内上杉憲実を支援する旨を決め、8月28日には後花園天皇に持氏追討の綸旨を申請しました。このとき、持氏と結びついているとみられる大和永享の乱の反乱軍・越智維通への追討綸旨もあわせて申請しています。そして8月末には幕府軍が東国へと侵攻してきました。
 4代義持の時代には、幕府はアンチ持氏方を支援するだけで済ませ、討伐軍を直接送り込むことはありませんでした。しかし6代義教は天皇の綸旨まで申請した上で、それが出る間も惜しんで討伐軍を早々と派遣し始めており、本気で壊滅させる気満々です。
 幕府軍の侵攻を大森憲頼は箱根口で見事防ぎました。幕府方は長期戦になることを覚悟したでしょう。
 上野国に立て籠もる憲実も、味方に次々と出陣を命じます。9月初旬には憲実派の小山持政(おやまもちまさ)は、武蔵笠原(埼玉県鴻巣市)に出陣しました。しかし持氏の命を受けた那須資持(なすすけもち:1389~1467)に背後から襲われ、これまた敗北してしまいます。
 このとおり、緒戦は持氏方がことごとく勝利しました。幕府はさすがに慌てたらしく綸旨の発給を急がせ、9月19日にようやく錦の御旗と治罰の綸旨をもらいました。「治罰の綸旨」とは「この者は朝敵なので討伐せよ」という趣旨の命令であり、これが出れば味方の士気は高まる上、敵方からは裏切りが続出することになります。
 9月下旬。幕府方が改めて箱根を攻め、大森憲頼の防衛ラインを突破しました。持氏は側近の榎下上杉憲直を小田原に派遣し、次なる防衛に当たらせます。
 そして9月27日、小田原・風祭の戦い(神奈川県小田原市)で幕府軍は憲直軍に逆転勝利しました。敗戦に慌てた持氏は、武蔵府中(東京都府中市)から海老名(神奈川県海老名市)に陣を移しますが、その途中で千葉胤直(ちばたねなお:1419~1455)や二階堂盛秀らが次々と離反していきます。やはり朝敵とみなされたことが大きいのでしょう。

さんざん幕府を悩ませてきた「困ったちゃん」の持氏なんですが、義教に比べるとまだまだ地味キャラに見えてしまいます。

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