見出し画像

日本人の物語00640【鎌倉前期】後鳥羽上皇の隠岐配流

 仲恭天皇が廃され、続いては挙兵の首謀者である後鳥羽上皇の処分が決定されました。
 承久3(1221)年7月10日。泰時の子・北条時氏(ほうじょうときうじ:1203~1230)が、後鳥羽上皇の幽閉された鳥羽殿にやって来ました。
 時氏は無礼にも、弓の片端で御簾をかき上げながら
「院は流罪となられました。早くおいでくださいませ」
と呼びかけました。後鳥羽上皇はあまりの仕打ちに言葉を発することすらできませんでしたが、時氏が責め立てるように再度呼びかけると、
「京を離れる前に伊王左衛門に会いたい」
とすがりました。伊王左衛門とは側近の藤原能茂(ふじわらのよしもち)のことです。
 能茂が後鳥羽上皇に謁見しに来ましたが、上皇は能茂の姿を見て驚きました。出家していたのです。上皇は
「私もそのように姿を変えよう」
と述べて出家し、7月13日に京を出発して隠岐に向かいました。
 上皇の乗り物は「逆輿(さかごし)」といって、進行方向と逆向きに乗せるという罪人を送る作法に則ったものでした。
 難波を過ぎたところで、上皇は「ここはどこか」と尋ねます。「明石の浦」との答えを聞いた上皇は、
「都をば 暗闇にこそ 出でしかど 月は明石の 浦に来にけり」
(暗闇の中で都を出発したが、月の明るい明石の浦までやって来た)
と詠みました。
 同行していた白拍子の亀菊は、
「月影は さこそ明石の 浦なれど 雲居の秋ぞ 猶もこひしき」
(明石の浦の月の光は明るいけれど、宮殿で過ごした秋が今も恋しく思われます)
と詠みました。
 上皇は三保埼(みほのさき:島根県松江市美保関町)から船に乗せられ、隠岐へと渡りました。ここで詠んだのが、
「われこそは 新島守よ おきの海の 荒き浪風 心して吹け」
です。自らが隠岐の島の新しい島主であると自称しており、「自嘲を込めた哀愁漂う歌」と評価する人もいれば、逆に「帝王のプライドをなおも失わない威厳に満ちた歌」と真逆の評価を下す人もいます。
 上皇はいつか赦免され京に戻れる日が来ることを待ち続けましたが、その夢は叶わぬまま18年が過ぎ、延応元(1239)年2月22日に58歳で世を去りました。上皇が晩年を過ごした地には「海士町(あまちょう)後鳥羽院資料館」があり、上皇ゆかりの宝物が展示されています。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集