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日本人の物語01548【室町/西国/応仁の乱】足利義視出奔

幕府が二つに分かれて争うとなると、当然に朝廷内も二つに分かれているようです。

 不利な状況に追い込まれた東軍では、内輪揉めが始まりました。
 応仁元(1467)年8月18日。細川勝元は後土御門天皇に
「宮殿の中に山名の味方をする者がいる。追い出していただきたい」
と申し出ました。天皇は驚いて
「誰のことか示してくれ」
と述べました。
 8月23日になって、勝元は将軍義政とともに12人の名簿を提出しました。義政が
「この12人はしばらく退出して静かにしてほしい」
と述べると、12人のうちの1人が抗議するように、伝奏役の正親町三条公治(おおぎまちさんじょうきんはる:1441~1495)・吉良義信(きらよしのぶ)に対してこんなことを言いました。
「山名方をひいきするのは我々に限ったことではない。帝もそうだ。我々は皆、敵が勝ったと聞いて喜び、味方が勝ったと聞いて憂えているぞ」
 これはなかなかに衝撃的な発言です。残念ながら発言者の名前が残っていませんが、要するに朝廷にも幕府にもこっそり西軍を支援する者がいたというわけです。その数は、大内軍が入洛したことで密かに増えていったことでしょう。
 その大内軍は8月20日に入洛し、8月23日に東寺に陣取りました。
 大内軍3万人の入洛は戦況を大きく塗り替え、二つの影響をもたらしました。
 一つは、不利を悟った勝元が後花園上皇と後土御門天皇を将軍御所へ移したことです。上御霊社の戦いに引き続き、二度目の動座となります。西軍によって上皇・天皇が利用されることを恐れたのでしょう。なお、勝元は動座に当たって上皇に対し、山名追討の院宣を申請しましたが、もちろん断られました。上皇は一度院宣を出してしまったことを激しく後悔していたので、当然でしょう。
 もう一つは、東軍総大将の義視が京を脱出し、伊勢の北畠教具のもとに逃亡したことです。大内上洛で勝ち目がなくなったためか、はたまた天敵である伊勢貞親(貞親は義視を讒言した前科があります)を復権させようとする兄・義政に不信感を覚えたためか、何とも分かりません。いずれにせよ東軍は、上皇・天皇を陣地にお迎えするという栄誉と、総大将が逃げ出すという失態とを同時に経験することになったのです。
 8月29日に義視は伊勢国の常光寺(三重県津市)に到着し、
「静なる 深山の奥の 隠れ家に 夜の嵐を 何と聞くらん」
と詠みました。都で吹き荒れる戦乱の嵐に背を向けて、静かな里で過ごそうということでしょう。

恐らく総大将というのは名誉職的なものだったんでしょう。実際に戦闘の詳細を差配していたわけではないのでしょうね。

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