日本人の物語00415【平安後期】保元の乱 崇徳上皇の最期
さて、その他の敗者についても見ていきましょう。
藤原氏については、頼長が敗死したものの、その父の藤原忠実が残っています。
信西は藤原忠実を流罪にすべきと主張しますが、長男・忠通が猛反対し、
「それではまず私を罷免してほしい」
とまで主張したため、咎めなしとなりました。忠実は長男・忠通を冷遇し、次男・頼長ばかりを可愛がっていたわけですが、それでもなお、忠通は実の父親を大事に思っていたようですね。
さて、最後に取り上げるのは崇徳上皇のその後のエピソードです。
崇徳上皇がずっと天皇に据えたがっていた子・重仁親王は、仁和寺で出家することとなり、皇位継承の目は消えてしまいました。そして崇徳上皇自身は讃岐に流罪となり、政治的な死を余儀なくされました。
讃岐で崇徳上皇は、静かに写経をして過ごしました。母・待賢門院璋子の命日に合わせて、大乗経を写経して仁和寺の弟・覚性に送りましたが、信西の命で
「奉納は許さぬ」
として、送り返されてしまいます。
崇徳上皇はあまりの仕打ちに、
「われ願はくは、日本国の大悪魔とならむ」
と言って舌を噛み切り、その血で呪詛の文言を書きつけました。
その後、後白河天皇は側近の平康頼(たいらのやすより:1146~1220)を讃岐に渡らせ、崇徳の様子を見に行かせました。康頼の報告は、
「上皇様は髪も爪も伸び、生きながら天狗になられた」
というものでした。
長寛2(1164)年8月26日に、崇徳上皇は崩御しました。遺体を運ぶ最中、死後20日経っているのに棺から血が流れたため人夫らは「まだ死にきっていない」と恐れたと伝えられています。
崇徳上皇といえば、百人一首にも収録されている
「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 会はむとぞ思ふ」
が有名ですが、これは恋歌なのか、はたまた政治的再起を願った歌なのか、いかようにも解釈できますね。自らに責任のない母・璋子の不倫のために「叔父子」と忌み嫌われた哀れな生涯でした。
崇徳上皇が晩年を過ごした場所には、その後上皇を祀るための鼓岡神社(香川県坂出市)が建てられています。
