見出し画像

日本人の物語01453【室町/西国/大乱前夜】山名宗全登場

最近『室町無頼』という映画を見たのですが、将軍義政の元で行われる評定の場に、あからさまに赤ら顔で赤い服を着ている入道姿の男性がいました。役名は一切書かれていませんが、明らかに山名宗全でした。

 次は「④播磨国における山名宗全と赤松満政の争い」について取り上げますが、その前に山名宗全について紹介しておきましょう。山名家の惣領・山名持豊は嘉吉の乱の直後に出家して宗峯(そうほう)、次いで宗全(そうぜん)と名乗ったので、以下は「山名宗全」の名で統一したいと思います。
 宗全をめぐる有名なエピソードが2つあります。1つは『塵塚物語』所収の話で史実かどうかは分かりませんが、宗全の考え方を知る上でのヒントとなります。
 ある博識な大臣が宗全と議論し、古今の様々な先例を用いて持論を語ったところ、宗全はこう述べたといいます。
「なるほどごもっともですが、過去の事例を挙げる必要はありません。これからは、『例』という言葉に替えて『時』という言葉をお使いになる方がよいでしょう。『例』はあくまでそのときの例であって、今も通用するとは限りません。あなた方公家は、そうした時代の変化を認識せず先例に捕らわれていたから武士に天下を奪われたのです。そもそも私のような身分賎しき武士があなたと語り合うということ自体、昔ならあり得なかったでしょう。これが『時』というものです」
 これには大臣も参って黙ってしまったといいます。宗全の先例をものともしない革新者としての矜持が表れていますね。
 もう一つは、万里小路時房の日記『建内記』に記されたものです。嘉吉元(1441)年閏9月20日、万里小路時房は三宝院義賢(さんぽういんぎけん:1399~1468)を訪ね、
「播磨守護が決まっていないうちに、播磨国内の寺社本所領を勅諚によって安堵すべきです。放置していたら、山名(持豊)に取られてしまいますよ」
と述べました。播磨守護たる赤松満祐が解任されたので、次なる守護が決まる前にまずは播磨国内の寺社本所領が取られないよう、天皇の命令を出して確保しようというわけです。
 しかし義賢の反応は悪く、
「山名は細川・畠山と異なり無法者である。もし勅諚が守られなければ勅諚が軽んぜられたことになる。それなら勅諚自体出さないほうが良いのではないか」
などと反対しました。時房は10月12日に再び義賢を訪ねて
「法を制定せずに何かが起こればそれは為政者の責任である。法を制定した上でそれが破られれば破った者の責任である」
と主張し、上手く勅諚を出させることに成功しましたが、この話から分かることは、宗全は無法者と認識されていたということです。
 宗全は常に積極果敢に権益を勝ち取ろうとするバイタリティに満ち溢れた人物だったのでしょう。いつも赤ら顔だったので「赤入道」などと呼ばれたとのエピソードもあり、宗全のキャラクターとよく合致している気がします。

山名宗全のキャラクターは本当に個性的ですが、大河ドラマ『花の乱』以外ではメインキャラクターとして登場しているケースをほとんど見ません。あまり人気のない時代なんですね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集