日本人の物語00751【鎌倉末期】下赤坂城の戦い 楠木軍の奇策
後醍醐天皇周辺の動向を見てきましたが、ここで楠木正成の動向に目を移してみましょう。
少し時間は遡りますが、元弘元/元徳3(1331)年9月11日、楠木正成は下赤坂城(大阪府千早赤阪村)で挙兵しました。まだ笠置山が陥落する前の出来事です。
幕府方は大仏貞直を派遣して下赤坂城への攻撃を始めました。さらに鎌倉から笠置攻めのため派遣された軍勢の多くは、笠置が陥落したとの知らせを受けて下赤坂城攻めに参加することとなりました。
その結果、幕府方の軍勢は30万騎にも膨れ上がりました。ただしこれは 『太平記』に記された数字ですので、誇張があるでしょう。
下赤坂城を見た幕府方は小さな城だと言って侮り、
「すぐに落ちるだろう」
と考えました。というのも、城の堀はずいぶん浅く、塀は一重だったからです。
幕府方はすぐさま総攻撃を開始しましたが、幕府方が堀の中に入っていくと、城だけでなく近くの山上からも矢が一斉に射かけられ、千人以上が死傷してしまいます。楠木勢は城を囮にして、多くの軍勢を近くの山に忍ばせていたのです。
大仏貞直は
「油断していた。軍務所を設けて本格的に合戦しよう」
と思い直し、一旦は陣屋で休息することにしました。ところが油断していたところに楠木正季(くすのきまさすえ:?~1336)・和田正遠(わだまさとお)が300騎で奇襲を仕掛け、幕府方は甚大な被害をこうむりました。楠木正季とは、正成の弟に当たります。
幕府方が大軍であるにもかかわらず僅か300騎の兵の奇襲にやられてしまったのは、周囲の地理に不案内なためでした。予測不可能な方角から襲撃を受けた上、敵兵の逃亡した方向も分からなかったのです。
大仏貞直は、周囲の地理を把握して草を刈って見通しをよくした上で攻撃をしようと決定しました。しかし楠木軍の奇襲で仲間を殺された武士たちはいきり立っており、下準備なく勝手に城に攻めかかっていってしまいます。
しかし、これこそ天才軍略家・楠木正成の思う壺でした。ここから、僅か数百の楠木軍が数十万の幕府軍を思うがままに蹂躙していくこととなります。信憑性の疑わしい話ですが、軍記物語『太平記』のうち最も面白い部分なのでそのまま紹介していくことにしましょう。
