日本人の物語01627【室町/西国/六角征伐】後土御門天皇の憤懣
朝廷と幕府の関係のことを「朝幕関係」と呼ぶのですが、地の文でいきなり使うと皆さん分からないでしょうか・・・?
応仁の乱終結後、しばらくはあちこちで同時並行的に事件が起こるので、地域ごとに見ていきましょう。まずは京の動向です。
文明10(1478)年3月。後土御門天皇が譲位したいと言い出しました。その原因は、禁裏御料所(つまり天皇の保有する荘園)の年貢がなかなか納められない状況に対して、幕府が何も対処してくれないことに不満を表明するためでした。
この時代、京の公家・寺社の年貢が武士たちに押領され、ほとんど納められない状況が常態化していました。荘園領主たる公家・寺社は信頼できる武士を代官に任命して派遣していたものの、その代官よりも守護の力が強かったり、ひどい場合は代官自身が押領の主犯だったりしたようです。
しかし義政は天皇の怒りを受け止めてはくれませんでした。というのも、かつて禁裏御料所の代官は幕府の推挙に基づいて天皇が任命していたところ、最近は天皇が直接任命するようになったので、代官の業務懈怠について義政は責任を持つ立場ではなかったのです。
「だから私を通して任命してくれればよかったのに」
と言いたい気持ちだったでしょう。
結局、年貢が入って来ない状況は改善されず、譲位に必要な儀式の費用を工面する方法もないため、天皇は譲位すら許されず泣き寝入りするほかありませんでした。後土御門天皇はこの後10月にも遁世を図って失敗するなど、幕府への不満を募らせていきます。
その後、さらに朝廷と幕府の関係を悪化させる事件が起きました。
文明11(1479)年7月1日。近辺で発生した火事が燃え広がり、内裏が延焼してしまいました。後土御門天皇は三種の神器とともに輿に乗って安禅寺に避難し、さらに7月11日には日野政資(ひのまさすけ:1469~1495)邸に移りました。
天皇は政資邸から義政に使者を派遣し、
「内裏はたびたび焼けるので、三種の神器と勝仁を義政のもとで預かってほしい」
と述べました。これはなかなか分かりにくい内容です。
天皇が三種の神器の管理を外部の人間に依頼するなどあり得ません。三種の神器を管理するのは天皇自身たるべきです。ここに出てきた勝仁親王(かつひとしんのう:後の後柏原天皇:1464~1526)とは後土御門天皇の長男のことで、これはつまり
「長男に譲位するので、義政の責任のもとで内裏を再建してほしい」
との要求でした。天皇はなおも譲位を諦めていなかったのです。
天皇も物の言い方を工夫して、将軍の顔色を窺いながら交渉している様子が見て取れますね。
