見出し画像

日本人の物語01094【南北朝中期】2代将軍義詮

少弐氏がコロコロと陣営を変えるので、九州情勢は実にややこしいです。

 大友氏時は豊後高崎城(大分県大分市)に陣を布き、菊池武光に圧力をかけます。太平記が
「菊池は前後の大敵に取り囲まれてどこへ退きようもない。まったく籠の中の鳥、網代の魚のようであると人々は思った」
と記述しているとおり、絶体絶命の危機であるかに思われました。
 ところが菊池武光はこの程度のことは物ともせず、予定通りに南下して三俣城を攻め、これを簡単に陥落させてしまいました。直顕はさらに南方への逃亡を余儀なくされました。
 菊池は悠々と日向国から肥後国へ引き返します。大友軍はすっかり菊池に恐れをなして、攻撃して来ません。
 九州情勢が大きく動く中、正平11/延文元(1356)年12月8日に義詮が征夷大将軍に就任しました。室町幕府の2代将軍です。執事・仁木頼章は病気がちだったため退任し、その後任には細川清氏が就任しました。
 この頃から室町幕府は引付衆を縮小し、将軍の権限を高めていったので、おのずから執事の権限も拡大することとなりました。こういった事情もあって、この頃から執事を「管領」と呼び始めることとなります。「執事」があくまで足利家の家中の事務を担当するのに比べ、「管領」は幕府全体を取り仕切るイメージのある役職名です。
 初代尊氏に比べて2代義詮はどこか頼りないイメージがありますが、将軍に就任したとなると、いやでもその名声は高まります。「足利家は安泰だ」「これからは足利家に従おう」などと、幕府方の武士たちは盛り上がったことでしょう。
 その影響かどうか分かりませんが、またもや態度を変えたのが少弐頼尚です。少弐といえば、足利直冬を大宰府に迎えて婿にとり、直義党として活動していたものの、観応の擾乱を受けて南朝方についた人物でしたね。
 その少弐頼尚は、直冬が没落してすっかり戦意を喪失してしまったことを受けて、
「こんな者に味方していては我が身が危ない。強い者につかなければ」
と思ったらしく、正平14/延文4(1359)年4月、幕府に恭順する意を示しました。つまり懐良・菊池との同盟を破棄して、尊氏党(この頃は尊氏は亡くなっているので義詮党と呼ぶべきかもしれません)につくことにしたのです。
 菊池武光にとっては、畠山直顕を討ってようやく九州を統一したかと思った矢先に、今度は大友・少弐という強大な敵が現れてしまった格好になります。まるで終わりのないモグラ叩きです。
 まだ少弐の裏切りを知らない菊池武光は、裏切り者の大友を討とうと豊後に向かうべく出発しました。しかしそこでさらなる裏切りに遭うこととなります。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集