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日本人の物語00583【鎌倉前期】梶原景時の変 弾劾状

 正治元(1199)年10月25日。侍所に集まった御家人たちは、思い出話に花を咲かせていました。ふと結城朝光が
「忠臣は二君に仕えずという。頼朝公が亡くなられたときに出家しておかなかったことを後悔している。あとを追うなとの遺言さえなければなあ」
と発言しました。
 梶原景時は、この発言を聞き逃しませんでした。
「忠臣は二君に仕えずとは、現将軍をないがしろにした物言いではないか」
と考えた景時は、ちゃっかりと頼家に報告し、朝光を断罪すべきと忠告しました。梶原景時の名は平三(へいぞう)というのですが、義経を讒言して失脚させたことで有名な景時は「讒言の平三」の異名を持っていました。朝光のこの程度の発言に過剰反応するあたりが「讒言の平三」らしいところです。
 10月27日。時政の娘・阿波局(あわのつぼね:?~1227)は、朝光に
「景時が讒言したのであなたは討たれるかもしれない」
と懸念を伝えます。慌てた朝光は有力御家人の三浦義村(みうらよしむら:1168~1239)に相談し、その三浦義村がさらに和田義盛と安達盛長に相談します。
 彼らは「梶原景時の讒言は我慢ならない」との意見で一致しました。確かに、この程度の発言で失脚のおそれが生ずるようでは、安心して物を言うことができません。そこで、署名を募って景時を弾劾することとなりました。
 彼らは読み書きができなかったのか、はたまた文才に自信がなかったのか、文人官僚の中原仲業に弾劾文の代筆を依頼しました。その全文は残っていませんが、
「鶏を飼う者は狸を飼わず。獣を飼う者は山犬を飼わず」
との一節がなかなかの名文だと三浦義村は褒めたといいます。
 この弾劾文に66人もの署名が集まり、10月28日に和田義盛と三浦義村が大江広元に提出しました。
 ところが広元はなかなかこれを頼家に提出しません。11月10日に和田義盛が
「鎌倉殿の反応はいかがでしたか」
と尋ねたところ、広元は
「まだ披露していません」
と答えました。義盛が色をなして
「多くの御家人の憤りをなぜ放置するのか」
と𠮟りつけるような調子で強く抗議したことで、ようやく弾劾状は頼家に提出されました。

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